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四月十日、笠大炊助と波多江種賢の両名が高祖へ帰ってきた。
その夜、城内の大広間では、抗戦か降伏か、運命を決する大評定が行われた。
論議は深夜におよんでも尽きない。


やがて雷山山脈の頂が白みはじめた頃、
秋月城に出していた使者が帰ってきた。


秋月氏は、原田とその祖先を同じとする関係から、
常に親しく行き来し、秀吉西下についても、
島津とともに抗戦する盟約をむすんでいたのだが・・・


秋月城の中にも、笠大炊助と波多江種賢らと同じ考えを持つ老臣がおり、
秀吉軍を向こうに回して抗戦することの不可能を説き、
自ら腹をかき切って城主を諫めたため、
秀吉軍に投じることとなり、島津攻めの先鋒に加えられたというのである。


しかし、この情報はあくまで抗戦を主張してきた城主原田信種にとっては、
かえって火に油を注ぐ結果となった。
「裏切ったか秋月!こうなれば高祖ひとり戦うまでだ。
生きて武門の恥をさらそうよりは華々しく武士の最後を飾ろうぞ
皆の者どうじゃ、老人どもは命が惜しくば戦わなくともよいぞ」


「殿、老いぼれの命など露ほどおしいとは思いませぬ。
ただこの場合、降参のみが原田家の今後の生きる道でござります。
もし、老いぼれの命にてお心が静まりますならば、このしわ首、いつでも差し上げまする」
血を吐くような老臣、笠大炊助の叫びであった。


「後に残った女房子供、出入りの商人、さらに民百姓の苦しみはどうなさるおつもりですか。
この高祖、怡土志摩の地が修羅の場となるばかりか、
未来永劫に逆賊の汚名をきせられまする」
両頬につたう涙もぬぐいをせず、必死の諌言をくりかえす老臣であったが・・・


「もう言うな大炊、これが武門の意地だ。拙者ひとりになってもこの意地はつらぬいてみせる。
戦いたくない者は去れ。これで評議は決した」


こうして高祖城は、ついに抗戦となった。


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天正十五年(1587年)三月一日。
ついに九州征伐の軍が大阪を発った。その数二万五千。
秀吉はまるで物見遊山の風情で、三月二十五日、下関に到着した。


下関の山といい、海岸、海上をうずめた秀吉の旗さしものは、
九州を睥睨(へいげい)するかのように林立していた。
時に豊臣秀吉、五十一歳の男盛りであった。


鹿家の合戦で波多を亡ぼした快感が、まださめやらぬ原田信種は、
鹿児島の島津、朝倉郡の秋月と盟約を結び、
「秀吉なにするものぞ」と気勢を上げていた。


そんな中、
時代の激流に、もはやのみ込まれんとする原田家を必死の覚悟で救わんとする一人の重臣がいた。
名を笠大炊助(りゅうおおいのすけ)という。
このシリーズで何度か登場した魅力的な人物である。
その墓石は前原市西の堂にあるという。
そういえば、西の堂には「笠」という姓がある。


老練の笠大炊助にすれば、時勢を読むに原田家の滅亡は目に見えている。
「殿、拙者と波多江種賢(たねたか)を敵情偵察にやってください。
その上で事を決せられても遅くはございますまい」
意を決して城主原田信種に言上した。


笠大炊助の必死の言上は、信種の心を動かした。
「ならば万一に備えて兵士二千をつれて行け」
二千といえば、原田家の兵士の大半であった。


偵察に兵二千はあまりに多すぎる。
笠と波多江の二将は、預かった二千の兵を途中のそこかしこに分散休養させ、
老いの身をいとわず、わずか数名の部下をつれ門司へと急いだ。


三月二十六日、一行は門司についた。
はるか海峡の彼方にひろがる光景に一行は息を呑んだ。
「これでは高祖に立ち返る余裕はない」
「原田方には敵意がないことを、一刻も早く秀吉公に伝えねば手遅れになるだろう」
笠大炊助は命を懸けて決断した。


二人は敵将浅野長政に頼み入り、
「筑前高祖城主原田信種が家老、笠と波多江、降参の申し入れのため、推参いたしました」
と取り次いでもらった。


戦わずして一城をなびかせた秀吉はおおいに喜び、
「案ずるな。原田は後世まで安泰に残るであろう」
とほめたたえ、九州の情勢などをつぶさに問いただした上で、
「島津攻めの先手として、原田をくわえるであろう」
と下えもおかずもてなしたうえ、愛用の刀一振りを笠大炊助に与えた。


「島津殿との盟約も、こうなってはしかたあるまい」
「しかし、島津殿とてこの大軍のまえでは、われらと同じ方法をとられるにちがいない」
二人は一抹の不安は抱きながらも高祖へ急いだ。


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鹿家の決戦は、原田の勝利で終わったが、
原田も波多も、ほとんどその全精力を使い果たしてしまった。


かの原田了栄も七十五歳になった今、
すでに老衰しきって、ものの役にたたず、
重臣の多くは合戦で死ぬか傷つくかして、
もはや、原田家から戦意は消え失せていった。


こうして、鹿家の合戦は、波多家がほろび、
原田家にとっても、衰退への第一歩となった。


はたせるかな、それから二年後の天正十四年(1586年)
豊臣秀吉の九州進出によって、ついに原田氏にも終焉の時が訪れることとなる。


鹿家の合戦の天正十二年当時、九州は鹿児島の島津と大分の大友の対立時代であったが、
島津の勢いに押され、大友はいちはやく秀吉に助けを求めていった。


やがてその年の秋、秀吉は、細川幽斎と千利休を鹿児島にやり、
天皇の名の下に、島津に無条件降伏を迫った。


ところが島津は、
「源頼朝いらいの名家である島津が、秀吉ごときを関白とは呼べぬ」
などと言いすて、使者突き返した。


血を流さずと心をくだいて使者を立てた秀吉であったが、
ならば征伐せんと、九州進出を早々に思い立った。


秀吉西下の噂にゆれる中、
あくまでも大友を敵とする原田は、この旋風の中で島津と手を組んだ。


そして原田は、天正十四年にいたり、秀吉と通じていた太宰府の岩家城を攻め、
城主高橋紹運を亡ぼした。
こうして、やがて押し寄せてくる空前の大軍を迎えようとしている原田の高祖城であった。


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事が破れた波多氏は、目下の仇敵、草野氏を亡ぼす前に、
一日も早く原田氏を討つべく軍をおこした。その数三千。


まず浜崎(唐津市)まで出動し、ここで二手にわかれ一隊は七山村にむかい、
原田の重臣、笠大炊助の飛び領地を襲い民家に火を放って決戦ののろしを上げた。
もう一隊の大将波多信時は山裾を伝って鹿家村に打って出て、陣を張った。


(二丈町鹿家は町の最西端にあり、唐津市浜崎と隣接する百戸ほどの地区である。
その昔から肥前と筑後をつなぐ山あいの地で、地理的に大切なカナメであり、
両国間の紛争の中心地となっていた。)


この知らせを受けた原田信種は、天正十二年(1584)三月十二日、
(波多の使者が退散してから五日め)
兵三千を引き連れ大将として出陣した。
日ごろ部下や世間からうけている軟弱のそしりを払拭すべく、
この一戦にかける決意はなみなみならぬものがあった。


信種の原田軍は、井原から山北へ抜け、鶴ヶ坂(つるがさこ)へ出る。
噂を聞いた村人およそ五百人は、ここで傭兵として加わった。
この先、一貴山村を越え、片山から深江村へ出た。


ここから原田軍は二隊に分かれた。
本隊信種の軍千五百人は鹿家峠を越え、途中から山の中に分け入り、吉井岳の中腹で待機した。
もう一隊は鹿家峠を越え、鹿家村へ入り、敵の目前まで迫り待機した。


高祖城を出発してから二日、折しも豪雨であった。
雨の音に消され、波多軍は、目前に迫った高祖軍に気づかない。
(まるで、織田信長の桶狭間のような・・・)


突如、鬨の声があがり、原田軍千五百が波多の陣に襲いかかった。
これを合図に、信種の騎馬隊千五百は、吉井岳中腹から逆落としをかけ、
鹿家の麓を目指して雪崩れ込んだ。


不意をつかれた波多軍は、豪雨の中、泥まみれの戦闘となり、
この世とは思えぬ修羅場のなか、陣形は崩れはじめた。
浜崎付近(唐津市)まで逃れた波多軍であったが、ついに大将波多信時が首を討ち取られた。
これを合図に波多軍は総崩れとなり、肥前の岸岳に逃げ帰った。


原田信種の吉井岳中腹からの逆落としは、源義経の一ノ谷の逆落としの戦法であった。


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その後、九州は大友と島津の対立時代となったが、原田家はしばらく平穏な日々が続いた。
原田信種は十九歳で原田四十六代の当主となったが、実権はまだ了栄が握っていた。


戦もまつりごとも、まだ不慣れな信種は、百戦錬磨の了栄に伺いを立てるのに気が重かった。
そうするうちに、信種は了栄よりも実父草野宗久(了栄の二男、原田種吉)
に相談することが多くなっていった。
これでは家臣たちもおもしろくない。
やがて、「信種殿は無能なお方らしい」
そんな噂がいつどこからともなく伝わっていった。


この様子にひそかにほくそ笑んだ豪族があった。
肥前岸岳の城主、波多信時である。
波多家は同じ肥前を支配する草野家と、たえず境界のことで争いが絶えなかった。
原田と草野が不和になってくれれば、波多にとっては都合がいい。


天正十二年(1584年)三月、波多信時の弟時実が高祖城をおとずれた。
実は、原田の重臣、笠大炊助(りゅうおおいのすけ)と波多時実とは従兄弟の間柄であったが、
草野家との関係上、久しく交流が途絶えていた。
思いもよらぬ客の訪れに高祖では礼を厚くしてもてなした。
やがて酒宴もたけなわとなった頃、
波多時実は笠大炊助を別室にさし招き何ごとかささやいた。
「無礼者っ」
高祖城きっての忠臣笠大炊助の怒声がひびいた。
「我々は当主や草野家に対して意に添わぬ事はあるとはいえ、
波多と手を組むほど落ちぶれてはおらぬ。
主君や草野家を裏切るような恥知らずひとりもおらぬ」


波多時実がはるばる高祖を訪れた用向きは、どうやら原田家にさぐりをいれるためであった。

笠大炊助については「もうひとりの忠臣笠大炊助」をご覧下さい

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親種の死によって後継者を失った了栄は、天正六年(1578)
肥前草野家に出した種吉の一子五郎が佐賀龍造寺家に人質として預けられていたのを
もらいうけることになり、五郎は佐賀で元服し、原田五郎信種と改め高祖にやって来た。
信種はのちに豊臣秀吉と交渉をもつこととなり、数奇な運命をたどる。
この信種の長女が『怡土・高祖城落城記』岩森道子著―の語り手輝姫である。
輝姫については「もうひとつの悲話―原田の姫―」をご覧下さい。


天正六年十一月、平穏な日々を送っていた高祖城へ薩摩の豪族島津義久の密書がとどいた。
「最近、九州を我が物顔に牛耳っている大友宗麟の倣慢は許し難いものがある。
よって、只今、島津家は大友打倒に乗り出している。
大友は原田家にとっても、かつては大内家とともに戦った積年の宿敵と聞く。
我々と共に大友打倒に立ち上がって頂きたい」


いったん静まっていた了栄の血が再び騒ぎ出した。
使者をねんごろにもてなした了栄は、
「大友打倒こそは了栄一生の念願である。志を同じうするわれら、この目的の完遂のため働こう」
という意味の返書をかえした。


天正六年十一月、日向の国、耳川の合戦で大友軍が島津軍に大敗したという情報がはいった。
了栄は、全怡土、志摩に号令して大友打倒の大軍をつのった。
池田川原の合戦以来、志摩の豪族たちも大部分が原田方になびいていたので、
勢い、高祖に駆けつけた。

天正七年七月、粕屋郡の立花城を出発した大友軍は、姪浜から船に乗り横浜に上陸。
陸の方からは日向峠白石坂に寄せてきた。
やがて、小金坂を中心に怡土全土は双方五千の兵士で激戦となった。
地の利を得た原田軍に大友軍は形勢悪く、ついに博多をさして敗走した。
これ以来、原田家は九州で勢力を伸ばしていった。


いきおいに乗じた了栄は、再び北崎の草場城を攻めた。
急を聞いた立花城から救援軍が差し向けられたが、生の松原で撃退された。
こうして、草場城も原田の勢力下となった。
原田了栄、この時七十歳であった。

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二丈町波呂の龍国寺


それにしても、戦国時代とはいえ何という因果であろうか。
四人までなした男子のうち長男種門と三男繁種を、志摩、岐志の浦で自決に追いやり、
二男の種吉は肥前草野家に養子に出し、いまや怡土(いと)に残るのは我が後継者にと願っていた

四男親種であったのに、この最愛の親種までも非業の死に追いやってしまうとは。
孤影悄然の原田隆種(了栄)であった。


親種が自害して果てた天正二年(1574年)
原田了栄は、三百七十年前原田種直が、平重盛を弔うために建てた波呂の極楽寺を、
再興して、名も曹洞宗龍国寺と改め、親種の霊を手厚く弔った。
原田家第一の武将といわれた了栄、六十五歳になっていた。


ー折しも今日、波呂のお客様より満中陰のギフトの注文がはいり、
その帰り道、彼岸花に彩られた龍国寺に立ち寄った。
境内にある龍国寺沿革には次のように書かれてあった。ー


「曹洞宗萬歳山龍国禅寺は建仁三年(1203)小松内大臣平重盛公の菩提の為
重盛公を開基とし高祖城主原田種直公創建の寺なり
初め小松山極楽寺と号し徹慶智玄大和尚を請じて開山となし天台宗の寺なりしが
至徳元年(1384)足利将軍義満公伽藍仏像を造立し允祐大和尚を請じて曹洞宗となる
その後天正二年(1574)高祖城主原田隆種公は四男親種公菩提の為寺を再興
号を萬歳寺龍国禅寺と改め本室智源大和尚を請じて中興開山となし現在に至る」

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その時、親種は不在だった。
大友の使者を待たせたまま、高祖城は小田原評定さながらに時はむなしく過ぎていく。


以下、『怡土・高祖城落城記』―岩森道子著―より引用します。
このくだりは誰しも衝撃をうけざるを得ない。


待つこと五時間、ようやく付き人を連れて親種さまとその妻、珠さまが帰っていらっしゃいました。
「この危急なとき、どこに行っておった」
曾祖父了栄(語り手輝姫)は声を荒げました。
小次郎秀種さまが亡くなって今日で五年になります。
生きていれば十五歳なっていらっしゃいました。親種さまは妻の珠さまと話し合って、
小次郎さまが祭られている今宿叶ヶ嶽の地蔵尊にお参りに行かれていたのでした。
彼らは月に一度は足を運んでいらっしゃいます。今日がその日でした。


書状を手にした親種さまに苦渋の色が見えました。
(戦になれば勝ち目はない)
唇をかんで書状にしばらく目を落としていらっしゃいました。
(この戦、火を消し止める以外、方法はない。さもなければ、怡土は滅びるだろう)
親種さまは考えあぐね、
(相手は天下の武将だ。こちらの腹をみせれば、わからぬ男ではない)
毅然としてお顔をあげられると、
「父上、この下知状、拙者にお任せくだされ」
胸に手をおいておっしゃいました。
何を決断なさったのでしょうか。彼は付き人に、
「ここを動くではないぞ」
と言い残されて城の外に出て行かれました。


付き人は親種さまのご様子に殺気を感じて、急ぎその後を追いました。
城の一角に伊勢城戸口のやぐらが建っています。
親種さまはそこへ行き着くや、やぐらに梯子をかけられました。
心配して外に出てきた重臣たちは、何事かとあっけにとられて見守りました。
彼は素早く梯子を登っていかれました。
いち早く主君の危険を察した家臣がやぐらを見上げて、
「殿、何をなさいます」
と叫びました。親種さまはやぐらから見下ろして、
「登ってくるでない」
と申されると、かけていた梯子を引き上げてしまわれたのです。
「大友の使いの者たちを、丁重にこの下に案内されよ」
穏やかな口調でございました。
間もなく三人の使いの者たちが連れてこられました。
「そなたたち、大友宗麟の使いの者に相違ないな」
親種さまが確かめると、やぐらを見上げていた使いの者たちはひれ伏しました。
「では、大友宗麟の、使いの者に、もの申す」
親種さまは、ゆっくりと、大音声で申されました。
森閑とした高祖山の森の中から、やまびこが、ゆっくり返ってきました。
「拙者が今から申すことを、しかと聞き、大友宗麟に申し伝えよ。原田了栄の首が欲しいと聞いた。
だが無駄な戦をして、尊い血を流したくない。よって、ここに四十五代城主原田親種の首を献上する。
大友宗麟に、わしの首をしかと手渡せ」
左手で自分の髷をつかむと、右手で首を斬って投げ落とされたのでございます。
親種さまのお体は前のめりに倒れて、真っ逆さまに地上に落ちていきました。
驚いた家臣たちは立ちつくしました。殿っ、殿っ、と親種さまの周りに駆け寄って、
「なぜ、かようなことを」
「ほかに方法があったものを」
あとは声になりません。おろおろと、なすすべもなく、とりすがって号泣されました。


曾祖父了栄は、目の前の惨事の重大さを把握できずに、家臣の後ろの方で自失呆然として
立ちつくしていらっしゃいます。
重臣たちは輪になって急ぎ協議なさいました。
(若殿は大殿の身代わりになって命を絶たれ、怡土の危急をお救い下さったのだ。
若殿の意志を大切にせねばならぬ。それには、後々大友から難題を持ち込まれては
若殿の死が無駄になる。そのためにも、ご遺骸が四十五代原田種親殿と間違いないことの確認を、
使者たちに請うべきだ)
 意見はまとまりました。(中略)


「この首級(しるし)頂戴つかまつる。持ち帰り、ご返答は帰国したうえ親書にて申し上げたい」
と申し出たのでございます。
「無礼者っ。何を申す。」
さがれっ、さがれっ、祖父了栄は使いの者を一喝、握りしめていた拳を震わせて、烈火のごとく
お怒りになりました。
この恨みが尾を引いて、再び大友との戦に拍車をかけていくのでございます。


―その夜、十数人の重臣や家臣たちが親種を慕って、割腹して果てた。
知らせを受けた大友宗麟宗は、親種の豪胆な気迫を賞賛し、その死を惜しんだ。
原田に奇襲された恨みは骨髄に達していた宗麟であったが、親種の意志を尊んで、引き下がった。
親種三十一歳。惜しまれる若さであった。

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前原市潤の専徳寺

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前原市潤の山茶花塚

前原市潤に専徳寺という浄土真宗のお寺がある。
そのすぐ脇に、山茶花(さざんか)塚はひっそりとあった。


眞清水観音、平等寺址臼杵塚(さざんか塚)
  元亀三年(1573)正月
  部下とともに壮烈な最期を遂げた臼杵進士兵衛らを弔うため
  塚を建てさざんかを植えた


朽ちかけた立て札にはそうあった。


「そのご大友は、この平等寺境内に進士兵衛以下二十八人の塚を建てて供養したが、
里人たちはこの塚に一本のさざんかを植えて哀れな人々の冥福を祈った。
この平等寺境内の一部は、いま潤の益水観音(ましみずかんのん)になっている。
このときに植えられた山茶花はその後枯れはてたが、だいだい里人によって植えつがれ、
いまでも冬がくれば清らかな花を枝頭に咲かせ、三百八十八年前の悲劇を物語るかのようである。」
『戦国糸島史』―中野正己著―糸島新聞社、昭和三十五年五月初版


ところが、この大戦をひきおこしたのは、原田方の情報ミスのためであった。
臼杵方が池田河原に結集しているという情報は誤りで、
実は、潤の平等寺参詣の途中であったのを、原田方が奇襲をかけてしまったのであった。
原田は、大友に対し負い目をおうことになった。


この報が、立花城にとどくや、大友宗麟は激怒した。
原田を討つべく、すでに豊後に隠居していた前城代、臼杵新介を呼び寄せた。


天正二年(1574年)四月、大友宗麟の下知状を持って臼杵新介の名代が草場から高祖へやってきた。


仕掛けてきた戦、いつでもお返し致す
次回、原田了栄の首、確かに頂き申す
             大友宗麟


北九州に覇を唱となえる大友宗麟からの下知状である。
原田方は色を失った。


このことが原田親種に悲劇をもたらすのであった。

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   戦国時代の糸島(十八)はこちらです

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それから程なくしたある日、
高祖の了栄のもとに、臼杵方約五十人程が池田河原に結集しているとの情報が入った。
すわこそと了栄、池田河原を奇襲せよとの命を下した。


不意をつかれた臼杵方は形勢悪く、草場城に急を伝える一方、救援を付近の郷士に求めた。
たちまち志摩の豪族達が援軍に駆けつけ、狭い池田河原は兵や馬で殺到した。
戦を避けたい親種ではあったが、有無を言わせぬ形勢に千三百余騎を追加して討って出た。


原田の総勢約二千騎。
草場城からも臼杵進士兵衛が駆けつけ、
池田河原に空前の戦乱絵巻を繰り広げた。


地の利を得た原田方に対し、臼杵方は形勢悪く、次第に敗色が濃厚となる。


おりから降り出した大雪を蹴散らしながら敗走にかかる臼杵方であったが、
折り悪く志登、泊間の干潟が満潮のうえ、
(現在では陸続きであるが、当時はまだ海であった―いわゆる「糸島水道」ということになるが、
最近の調査により、糸島水道はなかったという説がある
)猛烈な吹雪が加布里湾の方から吹き付け、とても渡ることができず、
やむなく潤(うるう)の大友支配下の平等寺に入り、
最後の拠点として防戦した。


しかし、勝ちに乗じた原田方の急追に、臼杵進士兵衛以下二十八名は、
もはやどうすることもできず、寺に火を放ち潔く自刃した。


"降りしきる雪の中に燃えあがる寺の大伽藍(がらん)が、
さながら悪魔の舌なめずりのように、
寒い糸島の夜空を、いつまでもえんえんとこがした。
元亀三年(1573年)旧正月二十八日の夕刻のことであった"
("から戦国糸島史―中野正己著―の美しい描写のままに記しました)


戦国時代の糸島(17)はこちらです

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今津誓願寺の不動明王像


西区今津毘沙門山の麓に、誓願寺というお寺がある。
西区小田のお客様を訪ねた帰り道、
「誓願寺毘沙門天」の看板に誘われて立ち寄った。


かねてより「戦国糸島史」―中野正己著―で読んでいたこともあり、
一度お参りしたいと思っていた。


そのくだりをそのまま記してみます。
やがて元亀三年(1572年)の正月となった。
怡土、志摩の春は、戦いを忘れて平和そのものである。
高祖の館では一族郎党の年賀も終わり、了栄、親種の父子は、
久しぶりに差し向いで迎えた新春のよろこびに浸っている。
父の了栄が六三歳,子の親種が二九歳。


「ときに親種、そちが無事に帰ってきてくれてわしもこんなうれしいことはない。
これというのも日頃信ずる毘沙門さまのおかげであろう。
わしはぜひお参りせねばならぬ」
「ならば拙者も一緒に」
「いや、そちは原田四十五代を継ぐ大切な身、館に残って心ゆくまで休養するがよい」
「はい。それにしても父上、もう戦いはコリゴリでございまするなア。
わずかな土地をとったの、とられたので、親や兄弟の命までかけて戦うなど、
もはや拙者は飽きました。戦いさえなければこんなにたのしい春が、
いつも訪れるにきまっていますものを・・・」


「ほんにのう。思えばわしの生涯は。いくさの連続であった。世間も悪いが、わしも悪かった。
たしかに血迷っていた。四人の子をもちながら、長男と三男は罪もないのに殺し、二男の種吉は
早くから草野家に養子に出してしまい、おまけに可愛い孫までもうしなってしまった。
いまから頼りとするのはそなただけじゃ。親種、きっと身を大切にして長生きしてくれよ」
「父上もどうぞお大切に・・・」
いつにない了栄のやさしさも、平和の春なればこそであった。―


坂を少しのぼりおえると、どなたか作業をしていた。
「ご住職ですか?」そう声をかけると、剃髪されたご住職が、柔和に応じてくれた。
「今津の毘沙門さまはこちらでよろしいのでしょうか?」
「あの~毘沙門天の像というか・・」
「お姿ですか」
「はい」

ご住職は上の方に手をかざされて、
本堂の正面に阿弥陀様、その左側に毘沙門天がおわすと言われた。
「お参りさせて頂いてもいでしょうか」
「どうぞ」
お言葉に甘えて本堂にあがらせていただいた。


「毘沙門天は山の方にもあるのでしょうか?」
そう尋ねると、
お山の方(毘沙門山)のお堂にあるが鍵がかかってありお姿を見ることはできないそうだ。
原田了栄はお山の毘沙門さまをお参りしたのだろう。


正月十六日の春はうららかに晴れていた。
原田了栄はかねての念願どおり、(中略)十数名をお供にして今津毘沙門もうでに出発した。
毘沙門山の南には大友の臼杵新介の出城があり、いわば敵地にいる覚悟がいりました。


お礼参りを無事終え帰路についた原田了栄一行を臼杵勢の伏兵がとりまいた。
「卑怯な、臼杵新介の指図か」
「新介だと、まだご城代の変わられたことも知らぬとみえるわ」
志摩と怡土間は、しばらく戦闘のない平和な時期が続いていたが、
臼杵新介が志摩郡政所職を辞し、臼杵進士兵衛鎮氏がその後任として来ていることも知らずにいた。


虎口をのがれて高祖に帰り着くことができた了栄であったが、心中おだやかでない。
もう争いはやめたと思っていた臼杵が、事もあろう城代をかえて、
やはり、この原田をねらっていると知った原田方は、ふたたび戦備をととのえはじめた。

   戦国時代の糸島シリーズはこちらからご覧ください

   葬儀のこと、家族葬のこと 何でもご相談ください ・・・ 「福岡 まごころ葬儀 羅漢」

大友軍四千と原田軍三千は、あかつきの生の松原を舞台に、
互いにシノギを削る大激戦をくり広げたが、
地の利を得た原田軍におされ、大友軍は次第に海岸の方へ退きはじめた。


そのしんがりをうけもった大友の大将、後藤隼人佐(はやとのすけ)が、
原田方の波多江修理進(しゅりのしん)の槍に倒れたのを機に大友軍は敗走した。


親種は無事原田軍と合流したが、あわれ一子小次郎、
激戦のさなか、その幼い命を落としてしまう。わずか十歳であった。


原田了栄は凱旋した親種の成人ぶりに喜んだものの、
たったひとりの孫の死に、狂気せんばかりに泣き崩れた。


毛利の地を出陣した親種が、怡土高祖城に滞在して、
やがて一年の月日がたった。


すなわち永禄十二年(1569年)
主君毛利元就と大友宗麟の大軍が博多でぶつかり、
かつて大内義隆が築き上げた博多の町は戦火で焼き尽くされてしまった。


そして運命の子親種は、毛利に戻ることなく、
高祖城で、やがてその生涯を終えることとなるのだった。


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原田種門、繁種兄弟が志摩町岐志の南林寺門前で自刃してから、
原田家は後継者がいないまま、十年の歳月が流れたが、
原田了栄の四男親種は依然毛利家にあった。


自分のあずかり知らぬところで起きた出来事とはいえ、
我が身の存在が引きおこした悲劇に、親種の胸中はいかばかりであったろうか。


了栄がゆくゆくは原田家の後継者にと決めていただけあって、
親種は、毛利家にあっても、ひとかどの武将になっていた。


原田家の後継者なる意志など微塵もなかった親種であったが、
しかし運命の歯車は、親種を怡土原田家へ引き戻さずにはおかなかった。


そして、事件は起きた。
永禄十一年(1568年)六月、粕屋郡立花城主、高橋鑑載(のりとし)が、
主家の大友に(大友宗麟の代)反旗をひるがえした。


毛利家(毛利元就の代)はかねてより九州進出の機をうかがっていた。
当時九州を支配していた大友にとって代わる、またとない機会である。
ただちに兵八千をもって、立花城救援にさしむけた。


原田親種も十歳になった長男小次郎秀種を伴い、この軍の一将として参加した。
大友は原田家にとっても、積年の仇敵である。


蒙古襲来の弘安の役(1281年)の折、豊後の国(大分県)大友氏は大いに手柄を立てた。
その功績により志摩郡を与えられ、北九州に勢力を広げた。
志摩草場の柑子岳(こうしだけ)にその居城を置き、高祖城の原田氏と攻防をくり返してきた。


毛利八千の軍は玄界灘を船でおしわたり香椎に上陸したが、
時すでに遅く、立花城は大友によって落とされていた。
上陸した毛利の援軍は、大友に迎え討たれ敗走した。
原田親種の一軍はほど近い名島城にひとまず立てこもった。
立花城主、高橋鑑載らも一時は名島城に立てこもったが、
さらにここを出て新宮浜にむかう途中、追手に追われて割腹して果てた。


この立花城攻略のおり、大友の一族、草場城の城代「臼杵新介」も参戦したが、
その留守に乗じて、原田了栄は草場城を奪った。
これを聞いた臼杵新介はとって返し原田勢を撃退、
草場城を奪回し、勢いに乗じて永禄十一年七月十九日、高祖へ攻めのぼった。
しかし、今度は原田に攻められ池田川ぞいに草場に逃れた。


さて、名島城に退いた原田親種らは、同八月二日またもや立花城攻略に奮い立ったが敗北した。
将兵の多くは戦死したり、中国(山口県)へ逃れたりした。
原田種親も高祖に帰ることを決意し、血路を開き博多へ向かった。


高祖の了栄のもとに親種から援軍を乞う早馬が届いた。
了栄はただちに兵三千をおくった。
東から親種軍を追う大友軍四千と、西からこれを救おうとする原田軍三千は、
生の松原でぶつかった。(この地は蒙古軍が襲来した場所である)
時、永禄十一年八月五日の明け方であった。

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原田家武将の第一人者、原田了栄ともあろう人物が、重臣のたくらみに乗せられ、
我が子を死に追いやった事は、終生償うことのできぬ失敗であった。


原田了栄に本木道哲の悪計を告げたのは、やはり、重臣のひとり、
笠大炊介(りゅうおおいのすけ)だった。
種門、繁種兄弟から、"爺"と呼ばれ親しみ頼りにされている人物である。


彼は、家中の者からも信頼厚く、高祖城落城まで原田家を支えていく。
秀吉の九州進出の折りも、原田家の危機を救おうと孤軍奮闘する。
「輝姫」高祖城脱出の折りもやはり、最後の高祖城主信種の側に控え、
輝姫様の無事を祈っていた。


そんな大炊介の諌言(かんげん)にさすがに了栄も目が覚め、道哲追討の軍を出した。
事が破れた道哲は早良方面に逃れていくが、従ってきた雑兵達もひとり抜けふたり抜けして、
早良の羽根戸村にたどり着いた頃には、わずか父子三人だけになっていた。


やがて追っ手の手により道哲父子の命も露と消えた。
陰謀が成功してわずか一日あまりのことであった。
このことがあってすぐ本木の家は断絶した。


みずからの不明から悲劇を招いた了栄の悔恨はいかばかりであったろうか。
了栄は、当時廃寺同様になっていた志摩町岐志の善福寺を再建し、
亡き種門、繁種兄弟の菩提寺として冥福を祈った。
(種門、繁種兄弟はこの善福寺の門前の井戸端で互いに刺しちがえて命を絶った)


後年、原田家が滅亡してから、ふたたび廃寺となっていたが、
福岡藩主黒田忠之がこの史実を知っていたく同情し、
朝倉郡にあった"南林寺"をここに移し、今に至っている。

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志摩町野北ー久米神社


志摩町(福岡県)野北に久米という集落がある。
この地をはじめて訪れたのは昨年の五月のことだった。


やはり、初盆営業の道すがら「来目皇子遺跡」に立ち寄ったが、
この「久米神社」は今日がはじめてである。


案内板はなかったが、民家の間を少し入ると、
短い石段の上に「久米神社」はあった。


この神社には聖徳太子の弟、来目皇子が祀られているそうだ。
神社の引戸は閉じられていたが、参拝させていただいた。
その小さくひっそりとしたたたずまいは、
来目皇子の生涯を象徴しているようにも思えた。


歴史には偉業をなした人物のかげに、
必ずそれを支えた人物がある。
豊臣秀吉の弟、秀長などもそうであるが、
人間的にも魅力があり、土地の人に慕われている人物も多い。


1400年以上たった現在でも、
地元の人から熱心な信仰を集めている
「来目皇子」も」そのひとりであろう。


来目皇子については、「来目皇子のおわす処」をご覧下さい

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志摩町岐志の南林寺


原田種門、繁種ら十数名の一行は、
高祖山を間道づたいに女原(みょうばる)―福岡市西区―のほうへ下り、
篠原から荻の浦へ、長野川を渡り神在、―前原市―
松末―二丈町―を過ぎ、西へ西へと急いだ。


地図を広げてみると、ちょうど国道202号を西へ走るルートに相当するが、
当時は大変な脱出行だったにちがいない。


片山まで来て暗い海が見えたとき、部下のひとりが、
これから先は一本道、道哲の軍はまちがいなくこの道を追ってくる。
このまま進むより海路をとったらどうかと言う。


大崎の鼻をまわり、外海にでてみると大時化であった。
舟を面舵(おもかじ)にとって岐志浦(志摩町)へと急いだ。


岐志にたどり着いた一行は疲れきった体を、やっと休めることができた。
その時、大原備後が口を開いた。
「我々の頼る先といえば、一番近い縁者の草野家と誰しも考えます。
種吉殿(了栄の次男、肥前草野家に養子に出されていた)を頼るのは危険ではありますまいか」
種門も同意し、親戚筋にあたる壱岐へ落ちのびることにきまったが、
壱岐に渡る舟を待つうち、日は五日、十日と過ぎ去った。


一方、種門兄弟をとりにがした本木道哲は八方追討の手をのばしたが、
その行方はまったくつかめない。
まさか、岐志浦の一隅に身を潜めているとはおよびもつかなかった。


ある夜半、岐志のかくれ里からひとりの郎党が消えた。
不憫な種門兄弟の身の上を思い、いま一度高祖城主原田了栄に訴え、
無実の罪をはらすべく、決死の脱出であった。


しかし、郎党のその悲願はアダとなった。
彼は高祖に着く前に、道哲の部下にとらわれ、種門主従のありかを知られた上、
その場で切りふせられてしまった。


1557年8月17日の朝、
道哲の手勢がこのかくれ里をとりかこんだ。
種門主従は必死に応戦するが、いかんせん多勢に無勢、たのむ大原備後も討ち死にした。
もはやこれまで、種門、繁種兄弟は血路を開いて南林寺の門前にある民家の井戸端まで
逃れてきた。


二人は武具を脱いで、井戸のかたわらの石へなげかけ、井戸水で体を清め、
互いに刺しちがえて命を絶った。原田種門二十二歳、繁種十八歳であった。

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原田了栄には四人の子がいたことはすでに述べた。
天下の武将とうたわれた了栄も家庭人としては凡庸であった。
四男の親種だけが後妻との間に生まれた子であったが、不幸はそこから起こった。
了栄はこの親種を後妻ともども偏愛し、ゆくゆくは原田家を継がせたいと思っていた。


弘治三年(1557年)八月七日。
その日、種門、繁種兄弟は高祖山の山頂にあった。
二人は幼少の頃母を失い、義母にうとまれて育った。
特に種門が原田家に恩義のある大内義隆の娘を内室に迎えてからは、
義隆の妻には邪険にし、了栄も後妻の顔色をうかがうありさまで、
ことあるごとに種門、繁種兄弟を遠ざけたい素振りを見せる。
家中も了栄に追従する派と、兄弟を擁護する派に分かれていた。


聡明な種門がそのような状況をくみ取れないわけはない。
いずれは高祖城を出ねばなるまいと考えていた。


そんな中、陰謀をめぐらす大老がいた。
本木道哲という。
二人が山に登ったと知った道哲はこの時とばかりにその陰謀を実行にうつした。


種門、繁種兄弟が山を下りようとしたとき、
「若殿っ、若殿っ」
十数名の家臣と共に駆け込んできたのは大原備後であった。
「殿、父、大原長為からの火急の伝言でございます」
「本木道哲のはかりごとにご城主が乗せられて、ご兄弟を討ってこいとのご命令を下されました」


備後の話によれば、
種門、繁種兄弟が原田家の後継者になれぬ事を恨み、二人は密かに大友方に寝返り、父了栄を討ち取る計画を企てている。
近頃たびたびの外出もすべてそのためのはかりごとの相談ですぞ。
道哲のはかりごとに、了栄はさもあろうと乗せられた。


了栄を言葉巧みにだました道哲は、一抹の不安を払拭すべく、
妹婿、大原長為にも了栄に話したとうりのことを語り協力を求め、盤石のものにしようとはかった。
道哲と同じ大老の大原長為はしかし、忠節一筋の男であった。
常日頃、道哲にかいま見る不審から、これは道哲の陰謀にちがいないと洞察したが
「是非もない。ご同行しましょう。用意をしてきますのでしばらくお待ち下さい。
言い置いて、一子備後を呼び、事の次第を告げ、
「急ぎ山に登って、ご兄弟にこのことを告げ、肥前草野どの(二男種吉の養子先)を頼って、
すぐさま落ちのびられるよう申し伝えよ。お前も一緒について行け」


さあらぬ態で、道哲の前に戻った長為は、
「しかし兄上、山に登っているご兄弟を探すより、やがて夕刻にもなれば山を下りてこられましょう
それを待ちぶせて、討ち取ってはいかがです」と説いた。
・・・やがてあたりは夕闇につつまれ、道哲に不安の色がみえはじめた。
さては、長為にはかられたかと気づいた道哲、
「長為、この義兄を裏切りおったな」
「兄上、原田家からうけた恩義をお忘れか。ご城主をいつわり、若殿をあざむくとはなにごとぞ」
ひとり、命を張って種門、繁種ご兄弟の難を救った大原長種だったが、
多勢に無勢、道哲らに切りきざまれ、ついに絶命した。


戦国糸島史の文をかりれば・・・
夜露がしとしとと忠臣の死骸のうえにおりた。
長為の墓は香力(前原市)の西方、通称"はから山"にある

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原田了栄(隆種)には四人の子がいた。
嫡男は種門、次男は種吉といい肥前の草野家に養子に出されていた。
三男は繁種、この三人は了栄の先妻とのあいだに出生された兄弟である。
四男の親種だけは後妻との子であり、幼くして安芸の毛利元就に預けられていた。
これも存続のための戦国の慣わしで、大内方の強い豪族と結んでおけばという原田家の戦略であった。


戦国時代の糸島(十)で述べた厳島の合戦の時、十四歳であった親種は毛利元就の軍に従軍した。
無論、高祖城原田家からも了栄の軍に従って、種門、繁種兄弟も出陣した。
この三人の若武者は久しぶりに顔を合わせた。
嫡男の種門は温厚で情に厚く、英知にたけた、誰もが認める、将来を約束された方であった。
三男の繁種は豪毅で弓術に優れており、頭脳も優秀で、兄弟仲もよかった。
四男の親種もまた、兄達に劣らぬ優れた若武者であった。


こうして、戦国時代の糸島史を、拙いながらもこのブログ上で紹介していますが、
「怡土・高祖城落城記」―岩森道子著と、「戦国糸島史」―中野正己著に依るところが大きい。
原田家の歴史に惹かれる者にとっては、とてもありがたい本である。
実はいずれの本も原田了栄が登場してから以降に多く紙面をさいている。
私もそうですが、たぶん多くの人が戦国時代といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に
代表されるような権力者側からの歴史をインプットされている。
また歴史とは権力者が編纂していくものでもあるようです。
この二冊の本に出会えて、日本の歴史に載らない一豪族の歴史も中央の(権力者の)歴史とひとつも
変わらないことを教えて頂いた。(その面白さにかけても、その残酷さにかけても)


原田了栄と、その四人の男子のことから書き出したのは、
この後の原田家がたどる運命に大きくかかわっていくからである。
天下の武将とうたわれた了栄と、若い後継者達。
怡土の領民達は将来に希望をたくしたはずであったが、
運命のいたづらか、了栄の跡を継ぐのは肥前の草野家に養子に出された次男の種吉の子「信種」である。
この信種こそ秀吉に高祖城をあけわたす事になる最後の高祖城主となる。
そして、「怡土・高祖城落城記」―岩森道子著―の語り手である輝姫はその娘である。
輝姫が高祖城落城前に志摩町の野北に落ちていくくだりは「もうひとつの悲話―原田の姫―」
詳しく述べた。岩森道子氏はこの輝姫に託して郷土愛と平和への願いを綴っている。


このくだりから、高祖城落城にいたるまでをなるべく的確になるべく簡潔に紹介したいが
次回までに考えておきます。


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金龍寺(前原市高祖)の「大蔵朝臣原田家累歴案内」に、
"隆種は波瀾万丈の戦国乱世によく対処してきて優将といわれながら、
内憂外患の生涯を終わった"という一文がある。
六十二歳で亡くなった原田興種の跡を継いだのがこの隆種であった。
のちに頭をまるめて、「了栄」と名乗る。
勇猛果敢な武将として、際立った存在であり、
了栄が登場するあたりから戦国糸島史も佳境に入ってくる。


戦国時代は、"下克上"という言葉で表される。
その代表のひとつにあげられるのが陶晴堅(すえはるかた)である。
天文二十年(1551年)大内義隆の家臣である陶晴堅は、
主君の大内義隆を殺し、大友と手を握る。
北九州から山口に覇をとなえてきた大内氏も義隆の死によって途絶えてしまう。
大内氏と友好関係にあった原田隆種は、大友の傘下にしようとする陶晴堅の指示に頑として服しない。
業を煮やした陶晴堅は高祖城攻略を思い立つ。
天文二十二年(1553年)大友と陶の大軍が高祖城を攻めた。
原田方は数百騎を率いて戦うが、腹臣の豪族の中に背く者が出たりして、
高祖城はついに陶の軍に乗っ取られてしまう。


高祖落城後、一時蟄居を余儀なくされていた隆種だったが、
二年後許されて、毛利元就とともに陶晴堅を討つため出陣した。
―大内氏の傘下にあった毛利元就も次第に勢力を広げ、ついには安芸(広島県)一国を手中に治めるに到っていた―
この「厳島の戦」で陶晴堅は討たれ、隆種は高祖に凱旋し、再び高祖城をおこす。
そしてこの頃から僧籍に入り、「了栄」と号した。


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「戦国糸島の主役,原田家のおこり」で紹介したが、
前原市高祖に原田氏の菩提寺、金龍寺はある。
この寺の「大蔵朝臣原田家累歴案内」に
"興種は父弘種菩提のため曹洞宗金龍寺を建立した"という一行がある。


怡土と志摩の抗争がくり返される中、
永正五年(1508年)高祖城主原田興種は、その父弘種の菩提を弔うため金龍寺を建立する。
原田氏は地方の一豪族ではあったが、
歴代の城主は、京からの要請を受けしばしば出陣している。
その度、戦抗をあげ時の権力者からの信頼も厚い。
原田興種も大内義興と京にのぼり、足利儀澄を敗走させた功績により、
義興の「興」の字をいただき興種と名乗った。


戦抗、戦略共に抜群として、将軍や天皇より感謝状を賜れた名将原田興種も、
享禄三年(1531年)出陣の帰途、病のため亡くなった。六十二歳であった。

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2010年1月1日、一市二町が合併し糸島市が誕生する。
一市二町とは前原市、志摩町、二丈町である。
三年半前、長崎県からこの地に移り住んだ頃、不思議な感覚があった。
(単に糸島郡の糸島と捉えていた私にとって)
前原市も西区の一部も含めて、糸島という呼び方をすることだ。
国道に「伊都国」とか「怡土邑」という名のつく看板もよく目についた。
先輩方は糸島の歴史を普通に会話し、
「原田」とか「大内」とか「龍造寺」とか今まで耳になじまなかった名前が出てくる。
歴史を中央の歴史からしか見ていなかった私が、
はじめて郷土史というものに触れることができたのは「イトシマ」のおかげである。
糸島という呼び方をするのは、とりもなおさず郷土史のいう「怡土」「志摩」なのであろうか。
さて、"へっぱく"(能書きと勝手に訳していた私だが元日の糸島新聞の特集、糸島弁百選には"無駄話"とでていた)
はさておき、


「二丈岳の戦い」の敗戦から二年(1433年)大内方は、高祖城の原田氏と共に二丈岳城の大友を攻めた。
今度は大友の二丈岳城は落ち、逃れて朝倉郡秋月の古処山城にたてこもった。
勢いにのった大内方に攻められ、大友は更に逃れて豊後の国から海上へ敗走した。


やがて中央では応仁の乱(1467年)がおこり、
―人の世むなしく応仁の乱と中学生の頃おぼえた年号は今もって忘れない―
高祖城主原田種親は上洛し、大内政弘、山名宋全について西軍方として大いに戦った。
このことにより、原田氏は大内方に厚い信頼をうけることになる。
こうして、大内方は原田氏と手を組んで、怡土に勢力を張っていった。
この後も志摩は大友方に、怡土は大内方に分かれ、
大友は北崎(福岡市西区)の草場城、大内は高祖城を居城に相対し、
双方の間で戦乱が絶えることなくくり返された。


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正覚寺本堂
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正覚寺山門

二丈町深江の地に正覚寺という浄土宗のお寺があるが、
山門の入口には次のように書いてある。


「本寺院はもと真言宗に属し、元享年間(西暦1321)二條城主深江氏の菩提所として宮小路古寺に
開基されたが永享三年(1431)大内、草野両氏の戦火に全焼、
幸に御本尊は無事であり、その後の厄災にも護持避難するを得て今に御尊影を仰ぐことができる。
後に摂津の人、定誉上人が天正七年(1579)現在地に再建して浄土宗に改め、
開山となり誓願寺大音院正覚寺と称す」


ここで言う大内、草野両氏の戦火とは、『戦国糸島史』にいう「二丈岳の戦い」の事である。
戦国時代の糸島(六)の一貴山の戦いから約一世紀を経ているが、
ここに至るまでの経緯は次のとうりです。


九州を制圧下においた足利尊氏は延元元年(1336)四月京都にもぼり室町幕府を開いたが、
九州は再び菊池、大友、少弐らが支配するようになり、幕府の令にしたがわない状況となっていく。
応永三年(1393)足利三代将軍足利義満は大内義弘を九州へ向かわせた。
―大内氏は周防(山口県)からおこり、中国地方から北九州にかけて勢力をふるった豪族―
怡土の高祖城主原田氏は足利尊氏との関係から大内氏に組した。
戦国末期、全九州に覇をとなえた大友宗麟を輩出した大友氏は豊後(大分県)からおこった豪族である。
弘安四年(1281)元寇のおり手柄を立て、筑前国志摩郡を新領土に得たのを機に、
北九州から糸島にかけてつよい地盤をもつようになった。


こうして大内氏と大友氏は、北九州から糸島を舞台に勢力争いをはじめることになったが、
その発端となったのが「二丈岳の戦い」でした。
永享三年(1431)大内は、大友の要城である糟屋郡立花城を急襲し攻め落とした。
敗れた大友は二丈城の草野治郎少輔を頼って、二丈岳山麓に陣を張った。
大友の盟友、筑前、肥後の領主少弐は、大友援護軍を波多(肥前松浦)に依頼し、大内攻撃に備えた。
一方、高祖城主原田氏は、大内軍の味方として二丈岳城下に対峙した。
相対峙する両軍は一万の大軍、戦死者も数千人といわれた。
死体は淀川をうめつくし、人血でまっかになり、炎天下血のりとなって水の流れを止めた。
清流が血で淀んでしまったことから「淀川」と名付けられた。(筑前藩地誌にそうある)
戦闘は深江の町にもおよび、当時宮小路にあった正覚寺も焼失した。
肥前より少弐、大友派の波多の援軍が駆けつけたことにより、戦局は大きくかわり大内勢は敗走する。
この戦いで原田方の重臣も多く戦死した。

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バイパスを福岡方面より西へ走り、「上深江」を左折、
ナフコを右に見て川沿いに登っていくと、一貴山の集落に到る。
現在は仁王門だけが姿をとどめているが、
(門内左右に身の丈三米の阿吽像が安置されている)
聖武天皇(奈良時代)の頃、唐から帰化した清賀上人が勅命を受けて開いた、
『夷キ寺』があったところである。
八つの末寺をもち、当時怡土七ヵ寺随一といわれたが、
南北朝のころ、この地は戦火にみまわれ『夷キ寺』も焼失してしまった。
前原市雷山の千如寺も七ヵ寺のひとつで、これもまた清賀上人が開山にあたった。


この一貴山の戦いで高祖城主原田種繁は、家臣の深江種長に討たれ戦死する。
この経緯を戦国時代の糸島(五)より順を追って記してみます。


二度の元寇を切り抜けた北条執権の鎌倉幕府ではあったが、
これに参戦した九州の豪族たちに与える没収地はなかった。
結果、やがて地方の豪族達との関係にヒビがはいってきた。
元弘三年(1333年)後醍醐天皇は討幕計画をすすめ、足利尊氏や新田義貞らの働きにより、
鎌倉幕府は倒れ、"建武の中興"と呼ばれる天皇の政権が復活する。
しかし、この新政権では貴族が権力をふるい、武士階級の支持を得ることはできなかった。
この状況の中、不満武士の支持を得た足利尊氏は朝廷軍と戦うが、
追討の命を受けた新田義貞に追われ、逆臣の汚名をきせられたまま、
弟の直義と共に九州へ敗走する。
このことを知った肥後の菊池氏(南朝方)はただちに尊氏追討軍を出した。
この時、高祖城主の原田種時は足利方に味方するが長男の種宗と次男は菊池方に走った。
こうして、父と子は多々良川(福岡県糟屋郡)の戦いで敵と味方に分かれ戦うのであった。
香椎宮に陣どった尊氏軍はわずか三百騎、対する菊池軍は四千騎。
一時は自決を覚悟した尊氏であったが、決死の奮戦によりついに菊池方を敗走させた。
菊池方についた種宗はいまさら高祖には帰れず、筑後に下り、
他家に養子にはいり同家を継いだそうである。
こうして、九州を制圧下においた足利尊氏は京都へ軍を起こした。
原田種時もこれに加わり、楠木正成との"湊川の戦い"に奮戦する。
京を追われた後醍醐天皇は吉野におち、尊氏は光明天皇を立て室町幕府を開いた。


この混乱の頃、深江(二丈町)に新田義貞の一族で新田禅師という武士が兵を挙げ、
当時、深江の地頭であった深江種長と計らい深江片山の民家を焼き払い、
一貴山の『夷キ寺』に立てこもった。
この知らせを受けた高祖城主原田種繁(種宗らの弟)は北朝方の応援を得て鎮圧に向かった。
前述のとうり、種繁は家臣の深江種長に討たれ戦死する。
暴動を起こした深江種長と新田禅師は、応援に駆けつけた荻浦(前原市)の豪族、重富兵衛四郎、
松浦党の中村弥五郎らに討ち取られる。
広大な境内を持つ『夷キ寺』もこの合戦で全焼してしまった。


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当時の南宋(なんそう)(中国)を統一し高麗(こうらい)(朝鮮)も服属させたモンゴル帝国は国号を元と改め、
日本を服属すべく使者を送るが、時の執権、北条時宗はこれを拒んだ。
これにより文永十一年(1274年)ついに蒙古軍は、軍船九百隻、兵三万をもって
博多湾に攻め渡ってきた。
鎌倉幕府は国を挙げ防戦につとめた。
おりしも天の助けか台風がおこり、国難を切り抜けた。
時の高祖城主、原田種照も命懸けの防戦につとめたが、箱崎付近で戦ううちついに戦死をとげた。
四十二歳であった。
これを文永の役とよぶ。

その後、蒙古の再度の来襲に備え、日本国は博多湾一帯の沿岸に防塁を築いた(元寇防塁)
今も西区今津長浜に、その原型を保っている。
やがて、七年後の弘安三年(1281年)再び蒙古は、今度は高麗軍を合わせ、
軍船四千四百隻、兵力十四万という大軍で襲ってきた。
蒙古軍はまず対馬、壱岐をおかし、更に今津志賀島に上陸した。
原田種照の子種之、孫の種房は今津に防戦したが、
そのうち、蒙古軍に疫病が流行したため、蒙古軍は一応壱岐へ退去、体制をととのえ再来したが、
またもや台風が起こり(歴史はこれを神風と呼ぶ)敵船の多くは沈没した。


戦がすんだ今津海岸から糸島水道一帯は、敵味方もわからない死体の山であった。
この戦の功績により、太宰大監という役職を得た種房は、この死体を怡土へもちかえり
高祖成ちかくに埋め、一寺を建て敵味方の区別無くこの霊を弔った。
これを高麗寺と名付けた。
今もこの辺りの地名を『高来寺』というのはこの由来だろうか。


なお、この弘安の役で豊後の国(大分)大友氏は大きな手柄を立てた。
これを機に北九州で羽振りをきかせていく。
このことが後の糸島では原田と大友の争いと発展していくこととなる。

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福岡方面より、福岡前原道路バイパスの「波呂北」を左折、県道の交差点「波呂」を直進し、
波呂の集落にはいると、ここ龍国寺である。
曹洞宗の禅寺で原田家とは深いかかわりがある。
こちらの檀家の方の葬儀を担当したこともあり、ご住職とは何度かお会いしている。
数日前訪れたとき撮った画像ですが、柿の実が熟していた。


さて、建仁三年(1203年)原田種直は、平重盛、奥方、その遺児、平家一門の霊をとむらうため、
波呂村に極楽寺を建て田畑五町を寄進した。これが現在の龍国寺である。
重盛の小袖、種直使用の硯箱などが、寺宝としてある。


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京都では皇位継承に関して、皇室重臣の間で不和がつづき、
平氏、源氏も内乱に巻き込み、やがて平氏の世となっていくこの時代、
原田種直は、保元元年父種雄と共に上洛し六波羅に入った。
そして保元の乱(1156年)平治の乱(1159年)とつづいたが、父子は平氏に組して
功績があった。
種直はこうして次第に平氏と近づき、永歴元年(1160年)平清盛の嫡男、平重盛の養女を
妻に迎え、重盛の推挙により太宰少弐となった。
治承四年(1180年)平清盛が後白河法皇を福原(神戸)に幽閉したとき、
この警護にあたったのが種直の子、種国であった。
このように原田家は、平家から厚く信頼されていた。
しかし、その平家もやがて滅亡の道をたどることとなった。
種直は、九州の豪族が源氏に寝返る中、ひとり平氏に味方した。
この頃の様子は、「平家の悲話―唐原の里―」を読んで頂ければ幸いです。


悲劇は、種直の身にも及んだ。
原田は領地没収のうえ、鎌倉へ出頭を命じられた種直は土牢に十三年間もの間、幽閉された。
建久八年(1197年)十三年の刑を終えて筑紫に帰るが、かつての郎党の姿もなく、
唐原の里に行ってみると、家来たちが細々と田畑を耕して、露命をつないでいた。


ところで、種直は自分は平家に属したにもかかわらず、弟の種成を源氏に味方させていた。
原田家存続のためには、これも戦国の世のならわしであった。
筑前と肥前をおさめていたその種成の口添えのより、新しく怡土(いと)の地を源頼朝より
与えられたのであった。
こうして、筑紫から怡土へ移った原田種直から四代目の種継が高祖城を築くこととなった。


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前原市大字東、西明寺の向かいに原田氏ゆかりの神社がある。
境内の「八幡宮由緒」と書かれた案内板に、原田春実公、原田種直公の記述がみえる。
応和三年(963年)征西大将軍原田春実公建立とある。


天慶三年、藤原純友の乱が起こった。
純友は伊予の豪族で、勢いにまかせて各地で暴れ回り、ついには太宰府にまでおよんだ。
その討伐にあたり、箱崎浜にこれを打ち破ったのが原田春実である。
その功により征西大将軍に任ぜられ、筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬、を管領することとなり、
肥前の基山城に乗り込み、太宰少弐となって、太宰府の守りについた。
その後、基山城では不便なため、麓の原田(はるた)に新しい居城をかまえた。
これが原田姓のもとになった。


さて、春実は純友討伐に出発するに先立って山城(京都)の石清水八幡に戦勝を祈った。
そして、これが成功したのも神のおかげであるとして、その神霊を勧請し奉ったのがこの八幡宮である。
時代はくだり、平家哀史の中心人物となった、原田種直は、国政をその子泰種に譲ったのちは、
この地に館を構え、住んだ。
そしてその墓も八幡宮の近くにあるという。


春実公以前については、「戦国糸島の主役、原田氏のおこり」を見て頂ければ幸いです。


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ここに糸島新聞社発行の一冊の小説がある。
20年7月1日初版の『怡土・高祖城落城記』
著者は岩森道子さん。
帯に、"行間の随所にうかがえる平和へのメッセージは、読むものに共感を与えてやまない"
と紹介されてある。
もうひとつの悲話―原田の姫―で紹介した、高祖城最後の城主原田信種の長女、輝姫を語り手として、
高祖城の繁栄から落城までがつづられている。


現在、前原市高祖にその跡はある。(怡土城跡)
怡土城と高祖城はよく混同されることもあるようですが、
『戦国糸島史』(糸島新聞社発行、中野正巳著)によれば、
天平勝宝八年(786年)唐から帰った吉備真備(きびのまきび)が、孝謙天皇の命令により工をおこし、
九年かかって築いた太宰府の外城である。
怡土城は全く大陸式のもので、今の高来寺、千里、飯氏、徳永、女原,上の原、谷など九ヵ村におよび、
その周囲を土塁で囲み、山頂にその本丸がある。
時代はくだり、筑紫より高祖に移った、原田種直(平家の悲話―唐原の里―で登場する武将)から四代目の
種継が、建長元年(1249年)にいたり、荒れはてた怡土城の一部を利用して築いたのが高祖城である。


この糸島の地を托鉢するとき、時折、戦国史ゆかりの場所に出会う。
戦国糸島の主役,原田氏の興亡を追いながら、紹介していけたらと思います。


「 原田氏のおこり」についてはこちらです。

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二十日の日、高祖神社を参拝した。
久しぶりに訪れると、境内は神聖なたたずまいを呈していた。
忘れていたが、「高祖夜神楽」の案内が出ていた。
この二十五日がそれである。


糸島に移り住んだ三年前の秋、
高祖を托鉢した折、地元の方に教えて頂いた。
私もその三年前、一度見物したことがある。
その夜、糸島の文化にふれ、わくわくしながら、
まだ慣れない糸島の県道を、帰路についた記憶が残っている。


境内の案内板には、次のようなことが書かれてある。
「高祖神楽は今から五百数十年前の応神元年、戦国動乱の時代、
時の高祖城主、原田筑前守種親が、盟主である周防国山口城主、
大内政弘の要請を受けて京都守護の大任に当たった時、
戦陣のつれづれに習得した『京の能神楽』を郷土に伝えたものとされています。
この外にも異説があり、その初めは定かではありません。
・・・高祖神楽は春、秋二回奉納されますが、
秋は十月二十五日午後六時頃より十時頃まで、
篝火の薄明かりで、境内の神楽殿で舞われています。
その真価は福岡県無形民族文化財の指定を受けている
格調高い郷土芸能であります。」

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原田氏の菩提寺,曹洞宗太祖山金龍寺


高祖(たかすー福岡県前原市)にあるこのお寺に、
「大蔵朝臣原田家累歴案内」という案内板があり、
箇条書きふうに原田氏について書かれてある。

大蔵朝臣(おおくらあそん)原田家は、中国漢高祖劉邦(こうそりゅうほう)を
始祖となし八十代信種公まで続いたが、天正十五年四月十七日豊臣秀吉九州征伐の
みぎり、反抗して滅亡した。と冒頭にある。
内乱によって王位を奪われ、朝鮮半島に逃れていた漢二十九代阿知王というのが、
「東方に聖主あり」ときき、一族郎党を引き連れて日本に渡ってきた。
289年(応神天皇の頃)、天皇は大和国(奈良県)に地をあたえた。

その後、御略天皇の頃にいたり、諸国からの貢ぎ物を納めるための大蔵を建て、
管理をおおせつけた。(大蔵大臣といったところか)そして大蔵という姓をたまわった。
時代は下り藤原純友の乱がおこり、939年、大蔵春美(原田の祖)はこれを
箱崎に破る。
その功績により"征西大将軍"となり、筑紫原田(はるた)に居城をかまえ、
太宰府の守りについた。
これが、原田(はらだ)姓のもととなった。
さらに時代は下り、源平の頃源氏に敗れ西に落ちてきた安徳天皇を居城に迎えた。
平家滅亡ののち、高祖に城を築いた(たかすー原田家滅亡までここが居城となる)
とある。

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志摩町野北(福岡県)に久米という集落がある。
この地が用明天皇の皇子で、聖徳太子の実弟である来目皇子(くめのおうじ)
ゆかりの地であることを知ったのは、この糸島に住むようになってからのことである。
知ってはいたが、訪れたのは今日が始めてである。
「来目皇子遺跡」の"方向看板"??(葬儀案内ではありません)に導かれて、
車を集落に入れた。
ちょうど道ばたにおばあちゃん二人がいたので、遺跡への道を尋ねると、
「いまは道が荒れているからどうかな」
「そこには碑があるだけで、ご神(ごしん)はそっちのほうにあるんだが」
(そっちとは久米神社のことらしい)
「まあ、行ってみんしゃい」
「いまは木が生い茂っていて周りは見えないが、昔は狼煙(のろし)をあげていた丘だ」
そのようなことを教えてくれた。
教わったとうりマイカーを進めていくとデコボコ道もはなはだしい。
(ランクルで来るんだった!って持ってません)
300メートル程林の道をデコボコ走らせると「来目皇子遺跡」についた。
(Uターンするスペースはあった)


遺跡の説明文には次のようなことが書かれてあった。
日本書紀によれば、来目皇子は602年(推古天皇10年)に、
「撃新羅将軍」となり、軍二万五千を率いて嶋郡(志摩郡)に船舶を駐屯させ、
軍糧を運んだが翌年病気を患い同地で没した。
この時、来目皇子が率いた軍の本営地、あるいは皇子の(※)仮埋葬地とも伝えられるのが、
この地である。
(※)この地に埋葬されたのではなく、周防娑婆(山口県佐波郡)で殯(もがり)―葬儀―
を行い、のちに河内埴生山崗(大阪市羽曳野市塚穴古墳)に埋葬された。
―ここより北に斜面を下ったところにある久米神社には、海神三神とともに来目皇子が、祀られており、
1400年以上たった現在もなお、地元の人々から熱心な信仰をあつめている。
(そういえば、おばあちゃん達は来目皇子を語るとき、少し誇らしげにみえた)
―また有史以前より玄界灘に面した海上交易の要衝としてこの地が繁栄したことがわかっている。
(いまは陸地だが、昔はここら一帯は海だったらしい)


久米は、来目からきているのだろうか。
今日すぐ近くの吉田を托鉢したおりのことです。

志摩町野北(福岡県)に戒宝寺というお寺がある。
そのすぐ脇に小さなお堂があるが、
いまから書こうとしている悲話のお姫様が、
そこには祀られている。

 豊臣秀吉に滅ぼされ、その長い歴史に終わりをつげた原田氏のことは、
4/8「秀吉、まいる」で少し触れた。

 今日午前中、志摩町吉田を托鉢したおりに、かねてより聞いていた、
「落石さま」を訪ねようと、野北(のぎた)まですこし足をのばした。
近くの人に「落石さま」を祀ってある祠(ほこら)を尋ねると、
目の前の小さなお堂がそれだと教えていただいた。
「行商の神さまといわれているよ」
「今は詣る人もいなくなったが、九月の一日にはお祓いがあってるよ」
そんなことを教えてくれた。

 天正十五年四月のある夜半高祖城下をぬけ、北へ急ぐ三人ずれがあった。
それは高祖城最後の城主、原田信種の一人むすめ輝姫と、それに従う乳母と、
付き添いの男である。
この時輝姫十四才、父の信種は、この姫だけには原田家が落ちても、
天寿をまっとうしてやりたかった。
信種は輝姫と乳母を呼び、乳母と共に野北の里にいそぎ、身をひそませるよういいきかせた。
輝姫とて武家の娘、父や弟の嘉種(よしたね)と共に戦い、討死することを望んだが、
ついに父の言にしたがい、乳母の里である野北の里に落ちのびることになった。
輝姫をたくされた乳母は感激して、
「お痛わしい"おちい様"(乳母はこう呼んでいた)かくなるうえは、
この乳母が命に代えましても、おちい様の行く末は、きっとお守りいたします。」

 輝姫一行が落ちていく様子は『戦国糸島史』(中野正巳著)の美しい描写をそのまま紹介してみます。
「あわれ、きのうまでは大ぜいの召使いにかしずかれ、高祖の里を一歩も出たことのない輝姫も、
今夜の供はただ二人、われとわが身にムチうちつつ、乳母がそろえた手甲(てっこう)きゃはんに
身を固めて、なつかしの高祖をあとにした。
路べにそよぐ葦の葉ずれにも心をおののかせつつ、月夜千鳥のなく泊(前原市泊)の干潟をかちで
わたり、馬場村(以下、志摩町)から吉田の里をすぎ、久米から渡し舟にうちのって対岸の野北浦
に着いたころには、すでに初夏の夜は明けはなれて、玄海の波が白々と磯辺を洗っていた。」

折よく居あわせた乳母の夫源助は、妻から事情を聞き感激し、
「お殿様が、このおれを頼ってゆけと・・・」言いもおわらず男泣きに泣き伏した。

せまい野北浦のこと、この悲話はすぐに村中に広がる。
荒くれた浜の漁師や女房もこの悲話を聞き、お痛わしいことじゃと、
あちらの漁家、こちらの農家から「"おちいさま"にあげてくれ」と
野菜や魚が届けられる。
村人の情けに感謝しながら日を送っていた輝姫のもとに、ほどなく高祖城落城の噂も聞こえてくると、
「このまま人の情けにすがって生きているわけにいかない」と、かたく心に決するものがあった。

 幾月がすぎ、輝姫はなにを思ったか、着物の振り袖を思いきり断ち切った。
そして、「私はもうこの世にたった一人の女、何か仕事をしなくてはなりません。
源助にたのんで、魚を売りに出たいと思います。」
おそれおおいことと、源助夫婦がことばを尽くして止めるが、輝姫の決心は固かった。
こうして翌日から輝姫は、一介の魚売りの娘になった。
「見ろ、おちいさまが、魚売り娘にならっしゃたぞ」
「ほんに、おおしいご決心じゃ、うちの娘も見習わせてやらねば」
輝姫の行商範囲は次第に広がって、はては吉田、馬場、泊、さらに志登、潤、高祖にまで、
出稼ぎに行くようになった。
こうしたことがあって以来、野北の娘は一度は魚の行商をしなければ、
一人前になれないとさえ言われるほどになった。

信種はついに、輝姫を迎えにくることはなかったが、輝姫は父の願っていたように、
名もテルと改め、平凡ながら幸せな漁夫の妻となり一生を終えた。
その後、土地の人々は「おちいさま」を行商の神さまとしてあがめるようになり、
ほこらをたてその霊を祀った。
「落石さま」は、この「おちいさま」が転化したものだという。

 二丈町唐原の平家の悲話に対して、もうひとつの悲話というタイトルをつけたが、
こんどの話は輝姫のたくましさが伝わってきて、救われる思いがする。
なお、今日の記述は、『戦国糸島史』によるところが大きい。
あらためて、この本に出会えたことに感謝します。

福岡 初盆のことならまごころ葬儀羅漢

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豊臣秀吉を知らない人はまず、いない。
だが、その秀吉がこの二丈町にかかわりがあったことを知る人は少ないと思う。
歴史上の好きな人物は?と問われると、
迷わず"豊臣秀吉"と答えていた時期もあった。
吉川英治の『太閤記』など、若い頃夢中で読んだ。
だが、朝鮮出兵あたりから、晩年にいたる秀吉については詳しく知らない。
むろん、深江神社と秀吉との関わりなど知るよしもなかった。
(この糸島に住むようになって、はじめて知りました)
吉川英治の『太閤記』もその時期には触れずに終わっている。
吉川英治さんは、晩年の秀吉に興味をもてなかったとどこかで読んだことがある。


神社の案内板には次のようにある。
『天正20年8月(1592年)当社に参拝された時に、
くしくも秀頼公誕生の報を受け、秀吉公恭悦斜めならず。
当社は秀頼公の産神となり思召された。
早速、時の領主小早川隆景公に命じ御社殿を再興されられ、
なお秀頼公誕生を記念して、深江神社の宮司の坊を、
誕生山神護寺秀覚院と改名された。
隆景公も石の鳥居を奉納されたのであるが、
現在の第二の鳥居がそれである。』 


前後のいきさつに少し触れてみます。


天正15年高祖城が落ちた。(原田氏は信種の代)
その後秀吉は九州を平定して、天正19年(1591年)朝鮮出兵にのりだした。
そして、その拠点を肥前名護屋におき、
当時豊前の領主であった黒田官兵衛(福岡藩祖)に命じて名護屋城をつくらせた。
この時、可也山の石材も運び出されたらしい。
兵たんの基地である博多と、指揮所の名護屋にはさまれた怡土志摩(いとしま)東松浦は一帯は、
兵、馬、船、あらゆるものが強制的に徴収された。
高祖の落城によって戦火が収まったのもつかの間、
こうして怡土志摩は朝鮮出兵の嵐の中に巻き込まれていくのである。
あけて、文禄元年(1592年)名護屋に集結した兵は十五万八千七百人、軍船七百隻。
その年の三月十三日出陣の命令を下した秀吉は、
関白職を秀次に譲り、淀君をつれ軍を指揮するため九州へ向かった。
その派手な行列は、さながら物見遊山のありさまであった。
そして、文禄元年四月二十四日この深江浜に着いた。
翌二十五日、深江浜の一隅にあった祠(ほこら)に淀君と共に詣で、戦勝を祈願した。
これが深江神社である。
深江神社は、原田種直(ブログ、平家の悲話-唐原の里―で登場した武将です)が建久八年(1197年)に
太宰府天満の分霊を祀って建てたもので、はじめは一貴山の片峰にあったものを建仁二年(1202年)
にいたって現在の地に移したものです。その後も秀吉は、度々参詣している。
そのうち、淀君に懐妊のきざしがみえ、秀吉の喜びようはいちようではなかった。
(それがやがて、関白秀次の悲劇へとつながっていくのは周知のことである)


以上は『戦国糸島史』の記述から得たものです。
遠く、物語として見ていた戦国時代も、郷土史としてとらえるとき、
すこし距離がちぢまるような気がします。

福岡 初盆のことならまごころ葬儀羅漢

石崎の交差点より満吉の集落を経て、車で十五分程登ると、
ここ唐原の里(福岡県二丈町)につく。
入社当時、托鉢の足をのばし、S先輩と一度訪れたことがある。
慣れない托鉢で私に疲れが見えると、この地糸島の旧跡に誘ってくれたものだった。
この地に伝わる平家の悲話はこの時知った。
久々に訪れると、この里は菜の花に彩られていた。

 平安時代末、栄華をきわめた平家の勢いにもかげりがみえはじめ、
源氏によって都を追われた人々は、西国の各地の隠れ住んだ。
この唐原の地にも、平清盛の子である平重盛の内室と千姫、福姫という
二人の姫たちの落人伝説が残こされている。地元の有力者である原田種直を頼り、
数少ない家来たちと共に逃げ延びてきた姫たちは、安住の地を得たかに思えたのもつかのま、
源氏の追手によって殺害されてしまったという。
いつの日にか都に帰れることを待ち望んでいた幼い姫たちは、
下界を望む大石の上に立ち、遠い都での華麗な生活を懐かしんでいたと言われる。
都見石と呼ばれるこの大石は、今もこの地の残されており往時の悲話を今に伝えている。
案内板にはこのように書かれている。

 昭和35年に発行された『戦国糸島史』(中野正巳著)という本がある。
当時、糸島新聞社に連載されていたもので、糸島の郷土史を伝える貴重な書である。
"神功皇后の足跡"で紹介した『糸島風土記』もこの方によるものであろう。
この『戦国糸島史』に原田氏と平家とのつながりが書かれてある。
糸島の歴史を語るとき、原田氏を抜きには語れない。
原田氏の歴史をさかのぼれば、遠く応神天皇のころにまでおよぶ。
「原田氏の先祖は漢民族(中国人)の出身で、内乱により王位を奪われた二十九代阿知王というのが
東方に聖主ありと聞き、その子都賀使主及び七姓氏、十七県人をひきいて日本にわたってきた」
とこの『戦国糸島史』には書かれてある。

 さて、時代はくだり保元の乱・平治の乱の時、原田種雄、種直父子は平氏の勢に加わって戦った。
種直はしだいに平氏と縁故が深くなるにつれて永歴元年(1160年)平重盛の養女を妻にもらった。
こうして、種直はだんだん平家におもんぜられ、重盛の推挙により従五位下となり、太宰少弐となった。
寿永二年(1183年)源頼朝、木曽義仲の勢が京都へ攻めのぼるといううわさは、
平家一門をあわてさせた。そしてこの年七月、平家は幼い安徳天皇を奉じて福原(神戸)へ都を移した。
そしてそのまま西下していくのである。
こうして、平重盛の内室も亡き夫の霊を弔いながら、二人の姫と共に落ち延びていくのであった。
この時ふと思い出されたのは、夫が生前その養女を嫁がせた筑紫の太宰少弐、原田種直のことであった。
高貴の女性が、時の流れとはいえ、西国の果てまで、はるばる自分を頼ってきてくれたことに、
種直夫妻は喜びかつ悲しんだ。
平重盛の内室が筑紫郡岩戸村の原田の館に落ち着いたのもつかの間、この年の八月十七日、
平宗盛は、安徳天皇を奉じて突如太宰府にあらわれた。
原田種直は、九州各地の豪族に使者をたてて奮起をうながしたが、これまで平家に味方していた
豪族たちも、平家が落ち目になると、手のひらを返したような態度になり、なかには源氏に味方して、
太宰府に攻め寄せる者もあったというありさまだった。
こうして太宰府もあやうくなり、安徳幼帝一行は四国へと渡り悲劇への道をたどっていく。
一方、重盛の内室一行をより安全な場所へ移すことに心をくだいた種直は、
ついに目に付けたのが、糸島郡の山奥唐原の地であった。

やがて一年が過ぎた。
安全と思われたこの地も源氏の知るところとなり、ついに追手によって二人の姫は殺害されてしまう。
後に残された内室も自刃してはてるのだった。
筑紫で訃報を聞いた種直は、その後満吉に一寺を建立し、千福寺と号して勤行をおこたらなかった。

福岡 初盆のことならまごころ葬儀羅漢

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昨日、前原市を托鉢した。
前原駅南から前原南、浦志から潤へ。
有田から曽根と、
天気も上々、気分も上々。


よく頑張った。
"自分で自分を褒めてあげたい"
(昔、有森裕子が言ってましたよね)
そんなわけで四時もまわったところで、曽根から井原へ抜けた。


このまま大野城二丈線を西へ帰ってもよかったが、
そうだ、伊都国歴史博物館に行こう。と気が向いた。


伊都国歴史博物館の看板に従って車を走らせたが、
なぜか裏手の「怡土(いと)小学校」から駐車場へ入った。
そこには「伊都民族資料館」があり、(以前、訪れたときは気がつかなかった)
導かれるように入っていった。


新館の伊都国歴史博物館が大昔(古代)の歴史とするならば、
ここには少し昔の歴史があった。(江戸時代くらいから)
農機具や生活道具、大正から昭和初期のポスターなどがあり、
私が子供の頃目にした品々もあり、私が過ごした昭和のにおいを感じた。
母が和裁をしていた頃の火コテや、木炭を入れるアイロンや足踏みミシンもあった。


興味を引いたのは、「加布里山笠」の山車の模型だ。(実物の1/7)
本物は三階建てくらいの高さだという。
最近はでていないそうです。
この資料館の責任者の方から教えていただいた。


お話をするうちに、なんと
私がとてもご恩を受けた方をよく知る方だった。
「また来てください」
そう言ってくださった方へ、車の中から会釈を返して、
帰路へ着いた。

福岡 まごころ葬儀羅漢

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伊都国についての記述は「魏志倭人伝」にある。
同じく、卑弥呼の"邪馬台国"についての記述は有名だが、
現在でも、その所在地については諸説ある。
邪馬台国九州説、畿内説などが知られている。


当時、日本には、邪馬台国をはじめとして、30以上の国々があり、
そのうちのひとつが伊都国です。
伊都国は朝鮮半島から、邪馬台国へ至るまでに通過する国として、
書かれているが、
その所在地が、ここ糸島の地であることは確かのようです。
(現在の福岡県前原市、二丈町、志摩町、福岡市西区の一部、)


魏志倭人伝には、伊都国について、
他の国々にはみられない特徴的な記述があります。


○伊都国には代々の王がいて、つねに女王国(邪馬台国)に従っていた。
○伊都国は諸国を検察する役目をもっていた。
○中国からの使者が来ると、必ず伊都国で止められた。
などから、強大な権力を持っていたと考えられます。


1/12日のブログでも紹介しましたが、
その権力をあらわす墳墓遺跡や日本一の銅鏡など多く
発掘されているにもかかわらず、
王の宮殿がどこにあるかは、まだ解っていません。


このようなことから、
伊都国こそ、"邪馬台国であったとする説もあるようです。
いずれにせよ、まだまだ注目すべき伊都国ではあります。


我が二丈町から、10分程、
写真は、前原に所用で出かけた折、
前原駅あたりで撮りました。


前原市井原に「伊都国歴史博物館」があります。
ここに行けば、つぶさに古代の歴史に触れることができます。


    前原市観光協会
    www.itokoku.com/kankou


福岡 まごころ葬儀羅漢

今日、ふたたび姫島(福岡県志摩町)を訪れた。
昨年お葬儀をされた喪家様の中陰壇の片付けである。
海は「天気晴朗なれど波たかし」状態だ。
(たしか、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で書かれていたと思う。
日露戦争当時、秋山真之が打った電文ー後世に残る名文ーの一節)

姫島港からキャタツとコンテナを担いで
喪家様宅へ歩いていると、
売店のお姉さんが、リヤカーを貸してくれた。
"肩の荷を下ろす"とは、まさにこのことです。

中陰壇片付けはさほど時間はかからない。
帰りの便まで時間がある。
しばらく喪家様宅でテレビなどみながらお世話になって、
また、野村望東尼の旧跡を訪ねた。
(昨年12月、『姫島にて』で紹介しています。)
ここには、望東尼が、獄中で詠んだ歌や、ゆかりの品があった。
まだここに居たい気分だが、船の時間があるので、
望東尼さんにわかれをつげた。

喪家様宅から港までは、
息子さんが軽トラックを回してしてくれた。
(帰りは祭壇道具が加わって)

姫島の方の親切に感謝しながら、
今日の"姫島ひとり旅"を終えた。

9日、チョットチョットチョットの続きです。
六所神社の紹介を忘れていました。

その昔、神宮皇后が三韓遠征より帰国。
志摩町小金丸の幣の浜に上陸したとき尊神を祭り、
国の守護神として鎮座し奉ったと伝えられている。

天正(戦国時代)の頃、しばしば兵火にあったものの
江戸時代になって、福岡藩主黒田忠之が再建し、
以後、代々の藩主も修復したという。
志摩郡四十四カ村の総鎮守として信仰を集め、
年一回小金丸幣の浜の仮宮で御神事があった。

境内には県指定天然記念物の大楠2本
(熊野神木と住吉神木ー樹齢600年)
があって、この神社の古さを物語っている。

神社の住所ー福岡県糸島郡志摩町大字馬場字長谷344番地

さて、9日はあれから松隈(馬場と隣接する地区)へ移り、
托鉢を続けた。-なんと、佐世保出身の人と出会った。
懐かしい町名を聞いた。
(私のふるさとは佐世保市近郊の西海市)

その昔、(390年代)神宮皇后が、朝鮮半島、新羅、百済に赴かれる際、
この地を通られた時に、この地に紫雲がたなびいているのをご覧になり、
この地には、神が在られると言われたことから、
「神在」(かみあり)と呼ばれるようになったと言われています。

境内の案内板にはこうある。

今日は何処に行こうか。
ふらりと行き先を決めずに事務所を後にして、
ここ、神在神社(前原市、神在)に参拝をしている次第です。

入社以来、1年余、
托鉢という名の営業をさせて頂いたが、
この頃少し"かくあるべし"という執われが
とれたような気がしている。

先輩がよく言っていた。
目的地へ車を走らせていて、突然、
「行かないもーん」と言って、
全然、違う処へ行ったりする。
すると、思いがけない出会いがあったりするもんだよ。

今日は、まさにそれである。
なにげなく訪ねた家で、生前予約をうけたり、
先輩が、懇意にしている方に出会ったり、
私の「よく知る人」を、よく知る人に出会ったり、

人との出会いは縁である。
その時のひらめきで動くとき、不思議な出会いがあったりする。
ここは、まさに神の在わすところにちがいない。

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