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神宮皇后の足跡(五)

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西区周船寺から県道56号線を南下すると、県道左に「染井の井戸」の案内板がある。
(前原市大門)神宮皇后の次なる足跡を辿るには、ここからはじめたほうがいいようだ。
"染井神話"と題した案内板には次のように書かれてある。


 ここの井戸の名を染井の神水といい、糸島の古代が語られています。
「日本書紀」には、仲哀天皇の皇后を神功皇后(息長足姫尊―おきながたらしひめのみこと)といいます。
九州地方に、クマソ一族が強い勢力を持っていたという時代。
大和朝廷の威力を広げるため奈良を出発した天皇の軍隊は、クマソとの戦いで、
仲哀天皇が敵の矢にあたり陣中で亡くなります。
クマソの勢力が強いのは新羅(朝鮮半島東南部)の後押しがあるからだと判断され、
玄界灘を渡り新羅へ軍を進めようとされました。(以下、略)
そして、この井戸に伝わる神話が簡潔に書かれてあります。
この神話のくだりは"糸島風土記"から引用してみます。


 さいわい三韓に近い糸島や唐津方面のことは、イトデがよく知っている。
神功皇后はこうして糸島へ向われることになったのである。
神功皇后は、折あしく妊娠しておられたが、それをかくして男装され、一行をしたがえて、
まず宝満山から背振山へと向かわれた。
雲をしのいで浮かぶ背振山をみると、あそこから三韓が見えるのではないかと思われたのである。
しかし目にいるのは果てしもない玄海の波ばかりである。
背振を下りた皇后の一行は、さらに早良郡の野方から広石峠ににかかり、高祖山の東方にそびゆる
今宿の鉢伏(はちぶせ)および叶ケ岳(かのうがたけ)にのぼり、ここで悲願成就を祈られた。
これが糸島に入られた第一歩である。かくて谷―徳永-飯氏―高来寺とすぎて染井に着かれた、
皇后の一行は、しばらく染井に本陣をおいて作戦を練ることになった。


 大和の都を出て、すでに二年あまりも過ぎていた。
仲哀天皇が香椎で亡くなられていらい、将兵たちも疲れ果てている。
都こいしさの思いが、いやましにつのるばかりである。しかし皇后は、三韓を征伐するまでは、
ここでヘコタれてはならぬと思った。

将兵たちを鼓舞激励するために一つの奇跡を示さねばならないと思われた。
 ある朝のこと,近くの泉にゆかれた。そこで亡くなった先帝のヨロイを差し上げながら、
「皆の者きくがよい。われわれは先帝のご遺志をついで、やがて遠く海をわたり、
三韓に向かおうとしているが、ゆうべふしぎの神霊があり、もしこの泉の水でヨロイが紅く
染まることがあったら、このいくさは必勝、もし染まらぬことがあれば望みなし、
早々に軍を引揚げた方がよい・・・とのお告げであった。みな心を静めて見られよ」と告げた。
ヨロイは静かに水に入れられた。一刻、二刻、結果やいかにと部将が見守るなかで、静かにヨロイが
引揚げられた。何という不思議!真清水の中から引揚げられたヨロイが色もあざやかに
真紅に染まっているではないか。
「勝ちいくさだ!」皇后も将卒もわれを忘れて叫んだ。
みんなの心には、すでに戦わずして敵を呑む勇気がうえつけられた。
ヨロイはバラバラにほぐされて近くの松の枝に干され、さらに、岩の上に干された。
(中略)
 ヨロイを染めた染井は、その後寛延四年(1751年)ときの郡長である永田清十郎(今宿の人)
によって玉垣がめぐらされ、石の鳥居が建てられ、今でも清浄の地域として地元のひとたちによって
常に清掃されている。

以上が、"糸島風土記"からの引用です。


カテゴリ 神功皇后の足跡(完結)  2008/4/4 公開


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