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神功皇后の足跡(四)

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宇美八幡


前回の投稿までは、神功皇后の足跡を点描のカタチで紹介した。
今回からは、その足どりを順を追って辿ってみたいと思います。
鎮懐石八幡宮の宮司さんのご好意に応えるためにも。

 これよりは、宮司さんにいただいた、"糸島風土記"
(昭和35年10月~11月にかけて、糸島新聞に連載されたものです)
をたよりに、紹介していこうと思います。

 大和朝廷の仲哀(ちゅうあい)天皇は、(西暦390年の頃)妻の神功皇后をつれて、
九州に向かわれた。それは九州一帯にはびこるクマソという豪族を討つためであった。
そのころ糸島には、伊都県主(いとのあがたぬし)という役目をもつイトデという者がいた。
彼は博多湾から糸島水道(現在では陸地となっているが)にかけて勢力を張っていた豪族で、
ただちに水軍を率いて、天皇夫妻を糟屋郡香椎の地に迎えた。
そのころの天皇は五十一歳、神功皇后のお齢は明らかではないが、まだ二十幾才の若さであった
ようである。

ところが、まだクマソをお討ちにならぬうちに、翌年の二月、クマソの一味である朝倉郡秋月の
羽白熊鷲(はしろくまわし)におそわれ陣中で亡くなられた。
さすがに皇后も一時は呆然となられたが、ここで力を落としてはならぬと、自分の父であり、
天皇の重臣である武内宿弥(たけうちのすくね)らと協議した結果、
当分の間、天皇の死を秘密にし、その遺骨を、どこか遠いところへ葬るようイトデに命ぜられた。
 仲哀天皇の遺骨を乗せた船は、イトデの先導により、勝手知った糸島水道を西へ進んで、
前原町(当時の記載のまま)東の湾岸(そのころまでの東は海岸であった)に上陸し、
やや奥まった長糸川付の小高い山にうずめた。
これが神功皇后と長糸の関係のはじまりである。
 仲哀天皇の墓所というのは、今の宇美八幡の裏手に「奥の院」として祀ってある。
(以上が「仲哀天皇の遺骨、長糸へ」という見出しで書かれた稿の大意です)

前原市川付にある、宇美八幡宮の長い石段脇の案内板に、その祭神の名が記されている。
上宮―仲哀天皇、 
本宮―気比大神、応神天皇、神宮皇后,清瀧権現、玉依姫、瓊々杵尊とある。


鎮懐石八幡宮の宮司さんとお逢いしたときの記事(シリーズ1)はこちらです


カテゴリ 神功皇后の足跡(完結)  2008/4/1 公開

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