戦国時代の糸島(二十六)―苦悩の忠臣、笠大炊助―
天正十五年(1587年)三月一日。
ついに九州征伐の軍が大阪を発った。その数二万五千。
秀吉はまるで物見遊山の風情で、三月二十五日、下関に到着した。
下関の山といい、海岸、海上をうずめた秀吉の旗さしものは、
九州を睥睨(へいげい)するかのように林立していた。
時に豊臣秀吉、五十一歳の男盛りであった。
鹿家の合戦で波多を亡ぼした快感が、まださめやらぬ原田信種は、
鹿児島の島津、朝倉郡の秋月と盟約を結び、
「秀吉なにするものぞ」と気勢を上げていた。
そんな中、
時代の激流に、もはやのみ込まれんとする原田家を必死の覚悟で救わんとする一人の重臣がいた。
名を笠大炊助(りゅうおおいのすけ)という。
このシリーズで何度か登場した魅力的な人物である。
その墓石は前原市西の堂にあるという。
そういえば、西の堂には「笠」という姓がある。
老練の笠大炊助にすれば、時勢を読むに原田家の滅亡は目に見えている。
「殿、拙者と波多江種賢(たねたか)を敵情偵察にやってください。
その上で事を決せられても遅くはございますまい」
意を決して城主原田信種に言上した。
笠大炊助の必死の言上は、信種の心を動かした。
「ならば万一に備えて兵士二千をつれて行け」
二千といえば、原田家の兵士の大半であった。
偵察に兵二千はあまりに多すぎる。
笠と波多江の二将は、預かった二千の兵を途中のそこかしこに分散休養させ、
老いの身をいとわず、わずか数名の部下をつれ門司へと急いだ。
三月二十六日、一行は門司についた。
はるか海峡の彼方にひろがる光景に一行は息を呑んだ。
「これでは高祖に立ち返る余裕はない」
「原田方には敵意がないことを、一刻も早く秀吉公に伝えねば手遅れになるだろう」
笠大炊助は命を懸けて決断した。
二人は敵将浅野長政に頼み入り、
「筑前高祖城主原田信種が家老、笠と波多江、降参の申し入れのため、推参いたしました」
と取り次いでもらった。
戦わずして一城をなびかせた秀吉はおおいに喜び、
「案ずるな。原田は後世まで安泰に残るであろう」
とほめたたえ、九州の情勢などをつぶさに問いただした上で、
「島津攻めの先手として、原田をくわえるであろう」
と下えもおかずもてなしたうえ、愛用の刀一振りを笠大炊助に与えた。
「島津殿との盟約も、こうなってはしかたあるまい」
「しかし、島津殿とてこの大軍のまえでは、われらと同じ方法をとられるにちがいない」
二人は一抹の不安は抱きながらも高祖へ急いだ。
カテゴリ 糸島の歴史
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