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戦国時代の糸島(二十四)―原田信種、鹿家の逆おとし―

事が破れた波多氏は、目下の仇敵、草野氏を亡ぼす前に、
一日も早く原田氏を討つべく軍をおこした。その数三千。


まず浜崎(唐津市)まで出動し、ここで二手にわかれ一隊は七山村にむかい、
原田の重臣、笠大炊助の飛び領地を襲い民家に火を放って決戦ののろしを上げた。
もう一隊の大将波多信時は山裾を伝って鹿家村に打って出て、陣を張った。


(二丈町鹿家は町の最西端にあり、唐津市浜崎と隣接する百戸ほどの地区である。
その昔から肥前と筑後をつなぐ山あいの地で、地理的に大切なカナメであり、
両国間の紛争の中心地となっていた。)


この知らせを受けた原田信種は、天正十二年(1584)三月十二日、
(波多の使者が退散してから五日め)
兵三千を引き連れ大将として出陣した。
日ごろ部下や世間からうけている軟弱のそしりを払拭すべく、
この一戦にかける決意はなみなみならぬものがあった。


信種の原田軍は、井原から山北へ抜け、鶴ヶ坂(つるがさこ)へ出る。
噂を聞いた村人およそ五百人は、ここで傭兵として加わった。
この先、一貴山村を越え、片山から深江村へ出た。


ここから原田軍は二隊に分かれた。
本隊信種の軍千五百人は鹿家峠を越え、途中から山の中に分け入り、吉井岳の中腹で待機した。
もう一隊は鹿家峠を越え、鹿家村へ入り、敵の目前まで迫り待機した。


高祖城を出発してから二日、折しも豪雨であった。
雨の音に消され、波多軍は、目前に迫った高祖軍に気づかない。
(まるで、織田信長の桶狭間のような・・・)


突如、鬨の声があがり、原田軍千五百が波多の陣に襲いかかった。
これを合図に、信種の騎馬隊千五百は、吉井岳中腹から逆落としをかけ、
鹿家の麓を目指して雪崩れ込んだ。


不意をつかれた波多軍は、豪雨の中、泥まみれの戦闘となり、
この世とは思えぬ修羅場のなか、陣形は崩れはじめた。
浜崎付近(唐津市)まで逃れた波多軍であったが、ついに大将波多信時が首を討ち取られた。
これを合図に波多軍は総崩れとなり、肥前の岸岳に逃げ帰った。


原田信種の吉井岳中腹からの逆落としは、源義経の一ノ谷の逆落としの戦法であった。


カテゴリ 糸島の歴史


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