[2009-10-01]
聞法の真髄
師はよく言われる。
「聞法たい」
仏法は聞法と言われている。
以前から知ってはいた。
いや、知っているつもりでいた。
知っているつもりの生意気な頃、
「聞法」を浅く、もっと言えば軽くとらえていた。
お寺さまのお話を聞くこと、
そして、それは自力ではなく、他力ではないか。
(そしてまた、他力の深い意味も知りもしないで)
ある時、師は言われた。
「聞法は問答(もんどう)たい」
「聞くだけではつまらん。尋ねきらな」
師の説法を聞くだけが精一杯で、まだ尋ねきれないでいる状態で、
まして、師と問答するなど。
「疑問に思うたら聞かな」
聞いてその時は心地よい気になっても、たぶん身に付かないだろう。
尋ねて、叩っ斬られて、(しゅんとなって)さとされて、深く教わるのである。
そして今日、師は言われた。
「聞法たい」
「Tを見てみろ」(Tさんは、やはり私の師に師事している先輩)
「いつも聞きたい聞きたいと思うとる」
「だから、聞かせてもらわんでも解らせてもらえるとたい」
「動きの中で解るとたい」
師は、「願い(悲願)があるから、いろんな事(苦手なこと)をさせるとたい」と言われる。
そんな動きのなかで解らせて頂くのである。
悲願(聞きたい聞きたいは悲願のあらわれであり、自力でもあろう)が強くあれば、
何かしら"働きかけ"があるのだろう。
その大きな働きかけを、他力と思っていいのではないだろうか。
カテゴリ 師の教え
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