戦国時代の糸島(二十二)―最後の高祖城主、原田信種登場―
親種の死によって後継者を失った了栄は、天正六年(1578)
肥前草野家に出した種吉の一子五郎が佐賀龍造寺家に人質として預けられていたのを
もらいうけることになり、五郎は佐賀で元服し、原田五郎信種と改め高祖にやって来た。
信種はのちに豊臣秀吉と交渉をもつこととなり、数奇な運命をたどる。
この信種の長女が『怡土・高祖城落城記』岩森道子著―の語り手輝姫である。
輝姫については「もうひとつの悲話―原田の姫―」をご覧下さい。
天正六年十一月、平穏な日々を送っていた高祖城へ薩摩の豪族島津義久の密書がとどいた。
「最近、九州を我が物顔に牛耳っている大友宗麟の倣慢は許し難いものがある。
よって、只今、島津家は大友打倒に乗り出している。
大友は原田家にとっても、かつては大内家とともに戦った積年の宿敵と聞く。
我々と共に大友打倒に立ち上がって頂きたい」
いったん静まっていた了栄の血が再び騒ぎ出した。
使者をねんごろにもてなした了栄は、
「大友打倒こそは了栄一生の念願である。志を同じうするわれら、この目的の完遂のため働こう」
という意味の返書をかえした。
天正六年十一月、日向の国、耳川の合戦で大友軍が島津軍に大敗したという情報がはいった。
了栄は、全怡土、志摩に号令して大友打倒の大軍をつのった。
池田川原の合戦以来、志摩の豪族たちも大部分が原田方になびいていたので、
勢い、高祖に駆けつけた。
天正七年七月、粕屋郡の立花城を出発した大友軍は、姪浜から船に乗り横浜に上陸。
陸の方からは日向峠白石坂に寄せてきた。
やがて、小金坂を中心に怡土全土は双方五千の兵士で激戦となった。
地の利を得た原田軍に大友軍は形勢悪く、ついに博多をさして敗走した。
これ以来、原田家は九州で勢力を伸ばしていった。
いきおいに乗じた了栄は、再び北崎の草場城を攻めた。
急を聞いた立花城から救援軍が差し向けられたが、生の松原で撃退された。
こうして、草場城も原田の勢力下となった。
原田了栄、この時七十歳であった。
カテゴリ 糸島の歴史
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