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戦国時代の糸島(十九)―前原市潤の山茶花塚―

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前原市潤の専徳寺

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前原市潤の山茶花塚

前原市潤に専徳寺という浄土真宗のお寺がある。
そのすぐ脇に、山茶花(さざんか)塚はひっそりとあった。


眞清水観音、平等寺址臼杵塚(さざんか塚)
  元亀三年(1573)正月
  部下とともに壮烈な最期を遂げた臼杵進士兵衛らを弔うため
  塚を建てさざんかを植えた


朽ちかけた立て札にはそうあった。


「そのご大友は、この平等寺境内に進士兵衛以下二十八人の塚を建てて供養したが、
里人たちはこの塚に一本のさざんかを植えて哀れな人々の冥福を祈った。
この平等寺境内の一部は、いま潤の益水観音(ましみずかんのん)になっている。
このときに植えられた山茶花はその後枯れはてたが、だいだい里人によって植えつがれ、
いまでも冬がくれば清らかな花を枝頭に咲かせ、三百八十八年前の悲劇を物語るかのようである。」
『戦国糸島史』―中野正己著―糸島新聞社、昭和三十五年五月初版


ところが、この大戦をひきおこしたのは、原田方の情報ミスのためであった。
臼杵方が池田河原に結集しているという情報は誤りで、
実は、潤の平等寺参詣の途中であったのを、原田方が奇襲をかけてしまったのであった。
原田は、大友に対し負い目をおうことになった。


この報が、立花城にとどくや、大友宗麟は激怒した。
原田を討つべく、すでに豊後に隠居していた前城代、臼杵新介を呼び寄せた。


天正二年(1574年)四月、大友宗麟の下知状を持って臼杵新介の名代が草場から高祖へやってきた。


仕掛けてきた戦、いつでもお返し致す
次回、原田了栄の首、確かに頂き申す
             大友宗麟


北九州に覇を唱となえる大友宗麟からの下知状である。
原田方は色を失った。


このことが原田親種に悲劇をもたらすのであった。

カテゴリ 糸島の歴史


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