戦国時代の糸島(十八)―池田河原の大決戦―
それから程なくしたある日、
高祖の了栄のもとに、臼杵方約五十人程が池田河原に結集しているとの情報が入った。
すわこそと了栄、池田河原を奇襲せよとの命を下した。
不意をつかれた臼杵方は形勢悪く、草場城に急を伝える一方、救援を付近の郷士に求めた。
たちまち志摩の豪族達が援軍に駆けつけ、狭い池田河原は兵や馬で殺到した。
戦を避けたい親種ではあったが、有無を言わせぬ形勢に千三百余騎を追加して討って出た。
原田の総勢約二千騎。
草場城からも臼杵進士兵衛が駆けつけ、
池田河原に空前の戦乱絵巻を繰り広げた。
地の利を得た原田方に対し、臼杵方は形勢悪く、次第に敗色が濃厚となる。
おりから降り出した大雪を蹴散らしながら敗走にかかる臼杵方であったが、
折り悪く志登、泊間の干潟が満潮のうえ、
(現在では陸続きであるが、当時はまだ海であった―いわゆる「糸島水道」ということになるが、
最近の調査により、糸島水道はなかったという説がある)猛烈な吹雪が加布里湾の方から吹き付け、とても渡ることができず、
やむなく潤(うるう)の大友支配下の平等寺に入り、
最後の拠点として防戦した。
しかし、勝ちに乗じた原田方の急追に、臼杵進士兵衛以下二十八名は、
もはやどうすることもできず、寺に火を放ち潔く自刃した。
"降りしきる雪の中に燃えあがる寺の大伽藍(がらん)が、
さながら悪魔の舌なめずりのように、
寒い糸島の夜空を、いつまでもえんえんとこがした。
元亀三年(1573年)旧正月二十八日の夕刻のことであった"
("から戦国糸島史―中野正己著―の美しい描写のままに記しました)
カテゴリ 糸島の歴史
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