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戦国時代の糸島(十七)ー西区今津の毘沙門天ー

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今津誓願寺の不動明王像


西区今津毘沙門山の麓に、誓願寺というお寺がある。
西区小田のお客様を訪ねた帰り道、
「誓願寺毘沙門天」の看板に誘われて立ち寄った。


かねてより「戦国糸島史」―中野正己著―で読んでいたこともあり、
一度お参りしたいと思っていた。


そのくだりをそのまま記してみます。
やがて元亀三年(1572年)の正月となった。
怡土、志摩の春は、戦いを忘れて平和そのものである。
高祖の館では一族郎党の年賀も終わり、了栄、親種の父子は、
久しぶりに差し向いで迎えた新春のよろこびに浸っている。
父の了栄が六三歳,子の親種が二九歳。


「ときに親種、そちが無事に帰ってきてくれてわしもこんなうれしいことはない。
これというのも日頃信ずる毘沙門さまのおかげであろう。
わしはぜひお参りせねばならぬ」
「ならば拙者も一緒に」
「いや、そちは原田四十五代を継ぐ大切な身、館に残って心ゆくまで休養するがよい」
「はい。それにしても父上、もう戦いはコリゴリでございまするなア。
わずかな土地をとったの、とられたので、親や兄弟の命までかけて戦うなど、
もはや拙者は飽きました。戦いさえなければこんなにたのしい春が、
いつも訪れるにきまっていますものを・・・」


「ほんにのう。思えばわしの生涯は。いくさの連続であった。世間も悪いが、わしも悪かった。
たしかに血迷っていた。四人の子をもちながら、長男と三男は罪もないのに殺し、二男の種吉は
早くから草野家に養子に出してしまい、おまけに可愛い孫までもうしなってしまった。
いまから頼りとするのはそなただけじゃ。親種、きっと身を大切にして長生きしてくれよ」
「父上もどうぞお大切に・・・」
いつにない了栄のやさしさも、平和の春なればこそであった。―


坂を少しのぼりおえると、どなたか作業をしていた。
「ご住職ですか?」そう声をかけると、剃髪されたご住職が、柔和に応じてくれた。
「今津の毘沙門さまはこちらでよろしいのでしょうか?」
「あの~毘沙門天の像というか・・」
「お姿ですか」
「はい」

ご住職は上の方に手をかざされて、
本堂の正面に阿弥陀様、その左側に毘沙門天がおわすと言われた。
「お参りさせて頂いてもいでしょうか」
「どうぞ」
お言葉に甘えて本堂にあがらせていただいた。


「毘沙門天は山の方にもあるのでしょうか?」
そう尋ねると、
お山の方(毘沙門山)のお堂にあるが鍵がかかってありお姿を見ることはできないそうだ。
原田了栄はお山の毘沙門さまをお参りしたのだろう。


正月十六日の春はうららかに晴れていた。
原田了栄はかねての念願どおり、(中略)十数名をお供にして今津毘沙門もうでに出発した。
毘沙門山の南には大友の臼杵新介の出城があり、いわば敵地にいる覚悟がいりました。


お礼参りを無事終え帰路についた原田了栄一行を臼杵勢の伏兵がとりまいた。
「卑怯な、臼杵新介の指図か」
「新介だと、まだご城代の変わられたことも知らぬとみえるわ」
志摩と怡土間は、しばらく戦闘のない平和な時期が続いていたが、
臼杵新介が志摩郡政所職を辞し、臼杵進士兵衛鎮氏がその後任として来ていることも知らずにいた。


虎口をのがれて高祖に帰り着くことができた了栄であったが、心中おだやかでない。
もう争いはやめたと思っていた臼杵が、事もあろう城代をかえて、
やはり、この原田をねらっていると知った原田方は、ふたたび戦備をととのえはじめた。

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