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戦国時代の糸島(十六)―原田小次郎秀種の死―

大友軍四千と原田軍三千は、あかつきの生の松原を舞台に、
互いにシノギを削る大激戦をくり広げたが、
地の利を得た原田軍におされ、大友軍は次第に海岸の方へ退きはじめた。


そのしんがりをうけもった大友の大将、後藤隼人佐(はやとのすけ)が、
原田方の波多江修理進(しゅりのしん)の槍に倒れたのを機に大友軍は敗走した。


親種は無事原田軍と合流したが、あわれ一子小次郎、
激戦のさなか、その幼い命を落としてしまう。わずか十歳であった。


原田了栄は凱旋した親種の成人ぶりに喜んだものの、
たったひとりの孫の死に、狂気せんばかりに泣き崩れた。


毛利の地を出陣した親種が、怡土高祖城に滞在して、
やがて一年の月日がたった。


すなわち永禄十二年(1569年)
主君毛利元就と大友宗麟の大軍が博多でぶつかり、
かつて大内義隆が築き上げた博多の町は戦火で焼き尽くされてしまった。


そして運命の子親種は、毛利に戻ることなく、
高祖城で、やがてその生涯を終えることとなるのだった。


カテゴリ 糸島の歴史


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