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戦国時代の糸島(十五)―原田親種―

原田種門、繁種兄弟が志摩町岐志の南林寺門前で自刃してから、
原田家は後継者がいないまま、十年の歳月が流れたが、
原田了栄の四男親種は依然毛利家にあった。


自分のあずかり知らぬところで起きた出来事とはいえ、
我が身の存在が引きおこした悲劇に、親種の胸中はいかばかりであったろうか。


了栄がゆくゆくは原田家の後継者にと決めていただけあって、
親種は、毛利家にあっても、ひとかどの武将になっていた。


原田家の後継者なる意志など微塵もなかった親種であったが、
しかし運命の歯車は、親種を怡土原田家へ引き戻さずにはおかなかった。


そして、事件は起きた。
永禄十一年(1568年)六月、粕屋郡立花城主、高橋鑑載(のりとし)が、
主家の大友に(大友宗麟の代)反旗をひるがえした。


毛利家(毛利元就の代)はかねてより九州進出の機をうかがっていた。
当時九州を支配していた大友にとって代わる、またとない機会である。
ただちに兵八千をもって、立花城救援にさしむけた。


原田親種も十歳になった長男小次郎秀種を伴い、この軍の一将として参加した。
大友は原田家にとっても、積年の仇敵である。


蒙古襲来の弘安の役(1281年)の折、豊後の国(大分県)大友氏は大いに手柄を立てた。
その功績により志摩郡を与えられ、北九州に勢力を広げた。
志摩草場の柑子岳(こうしだけ)にその居城を置き、高祖城の原田氏と攻防をくり返してきた。


毛利八千の軍は玄界灘を船でおしわたり香椎に上陸したが、
時すでに遅く、立花城は大友によって落とされていた。
上陸した毛利の援軍は、大友に迎え討たれ敗走した。
原田親種の一軍はほど近い名島城にひとまず立てこもった。
立花城主、高橋鑑載らも一時は名島城に立てこもったが、
さらにここを出て新宮浜にむかう途中、追手に追われて割腹して果てた。


この立花城攻略のおり、大友の一族、草場城の城代「臼杵新介」も参戦したが、
その留守に乗じて、原田了栄は草場城を奪った。
これを聞いた臼杵新介はとって返し原田勢を撃退、
草場城を奪回し、勢いに乗じて永禄十一年七月十九日、高祖へ攻めのぼった。
しかし、今度は原田に攻められ池田川ぞいに草場に逃れた。


さて、名島城に退いた原田親種らは、同八月二日またもや立花城攻略に奮い立ったが敗北した。
将兵の多くは戦死したり、中国(山口県)へ逃れたりした。
原田種親も高祖に帰ることを決意し、血路を開き博多へ向かった。


高祖の了栄のもとに親種から援軍を乞う早馬が届いた。
了栄はただちに兵三千をおくった。
東から親種軍を追う大友軍四千と、西からこれを救おうとする原田軍三千は、
生の松原でぶつかった。(この地は蒙古軍が襲来した場所である)
時、永禄十一年八月五日の明け方であった。

カテゴリ 糸島の歴史

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