戦国時代の糸島(五)蒙古襲来と原田家
当時の南宋(なんそう)(中国)を統一し高麗(こうらい)(朝鮮)も服属させたモンゴル帝国は国号を元と改め、
日本を服属すべく使者を送るが、時の執権、北条時宗はこれを拒んだ。
これにより文永十一年(1274年)ついに蒙古軍は、軍船九百隻、兵三万をもって
博多湾に攻め渡ってきた。
鎌倉幕府は国を挙げ防戦につとめた。
おりしも天の助けか台風がおこり、国難を切り抜けた。
時の高祖城主、原田種照も命懸けの防戦につとめたが、箱崎付近で戦ううちついに戦死をとげた。
四十二歳であった。
これを文永の役とよぶ。
その後、蒙古の再度の来襲に備え、日本国は博多湾一帯の沿岸に防塁を築いた(元寇防塁)
今も西区今津長浜に、その原型を保っている。
やがて、七年後の弘安三年(1281年)再び蒙古は、今度は高麗軍を合わせ、
軍船四千四百隻、兵力十四万という大軍で襲ってきた。
蒙古軍はまず対馬、壱岐をおかし、更に今津志賀島に上陸した。
原田種照の子種之、孫の種房は今津に防戦したが、
そのうち、蒙古軍に疫病が流行したため、蒙古軍は一応壱岐へ退去、体制をととのえ再来したが、
またもや台風が起こり(歴史はこれを神風と呼ぶ)敵船の多くは沈没した。
戦がすんだ今津海岸から糸島水道一帯は、敵味方もわからない死体の山であった。
この戦の功績により、太宰大監という役職を得た種房は、この死体を怡土へもちかえり
高祖成ちかくに埋め、一寺を建て敵味方の区別無くこの霊を弔った。
これを高麗寺と名付けた。
今もこの辺りの地名を『高来寺』というのはこの由来だろうか。
なお、この弘安の役で豊後の国(大分)大友氏は大きな手柄を立てた。
これを機に北九州で羽振りをきかせていく。
このことが後の糸島では原田と大友の争いと発展していくこととなる。
「戦国時代の糸島」シリーズはこちらからご覧ください
カテゴリ 糸島の歴史
トラックバック (0)
http://www.rakan-fuk.co.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/642





















