托鉢ブログ

解釈は介錯なり。

師は言われる。
「お経の中身を知りたいなどと言うけど、
時期が来ておらん時に聞いても解らん。
いくら話しても耳に入らん」
仏法は聞法(もんぽう)という。
教えをいただこうとする者は、まず素直でなくてはいけない。


「あんた達はアタマのよかもんな」
(これは褒め言葉ではない)
「アタマのよかもんは、自分の法律で解釈する」
「執われがあるから、疑う」
だから、教えがそのまま入ってこない。
間違った解釈をしてしまうことになる。
「介錯してやりきらないかん」
「たたっ切るとたい」


"アタマのいいやつ"(物事をしってるつもりの私たち)がお経を解釈することを
『戯論(げろん)』という。
戯論とは有るとか無いとか、ああでもないこうでもないとか、
議論することをいう。(つまり"たわごと")
『戯論(げろん)』をたたっ切ることを介錯という。


「馬鹿がよかとたい」
「馬も鹿もあるけん、"りこうもん"たい」
師はそう言って、アハハと笑った。

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