托鉢ブログ

自分だけが悲しいのではない。

「子供を亡くして泣きくれた母親が、釈迦様のところにきたんだが、」
「するとお釈迦様は、死人がでていない家から、何だったか忘れたが、
まあ、米粒としよう。死人がでていない家から米粒をもらってくるようにと言った」
「母親がどの家を訪ねても、死人の出ていない家は一軒もなかった」
「そこではじめて、お釈迦様は母親にさとした」
「悲しいのはお前だけではないんだよ」
「誰もが、同じような悲しみを背負っているんだよ」
「だけど、この母親は理解はしたけども、そこどまりだと思うよ」
「その先のことまでは解らなかった」

 今日、十数年ぶりに逢う知人(私にとって)が遠方から師のもとへやってきた。
その知人と師との会食に、わたしも同席させていただいた。
その席で、師の教えをいただく機会を得た。

 「人間は因があって、この世に生まれてくる」
「地獄に生まれてきたとやけん、そりゃいろいろあるくさ」
「苦労したとか、言っているあいだはまだいかんな」
「苦労したと言っいる暇もないとたい」
「苦労と感じらんごとなるとたい」
「命懸けですか」
「命懸けと思わんでよか。一所懸命たい」

 仏教の根本の教えに"因縁"がある。
人間がこの世に生をうけたことの根元を説く教えであり、あまりにも深い。
"なぜ、自分はこのような境遇に生まれ合わせたのだ"などとは今は一切考えない。
ただ、「この世に修行に来たのだ!」と思い極め、生きていこうとだけ私は思っている。

「ああ、今日あいつから、あんなこと言われたな・・なんて思うこともいらん。
今日も一日終えたな、おやすみ。で眠りにつけばいいとたい」
「貧乏したから身にしみて解ることがあろうが、そしたら、貧乏もありがたかろうが」
「貧乏神も福の神に変わるったい」
「そがん思えば楽しかろうが」

「そういえば、根に持つことがなくなったな」
「イヤなこと言われても、もう忘れとるもんな」
「そげんなってくると、イヤなことも言われんごとなってくるとたい」
「そげんなるごとなっとるとやけん、まかせてゆったり構えとけばよか」

 そうたい。"修行に来たとだ!"と構えることもいらんとたいね。

福岡 初盆のことならまごころ葬儀羅漢

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