托鉢ブログ

もうひとつの悲話―原田の姫―

志摩町野北(福岡県)に戒宝寺というお寺がある。
そのすぐ脇に小さなお堂があるが、
いまから書こうとしている悲話のお姫様が、
そこには祀られている。

 豊臣秀吉に滅ぼされ、その長い歴史に終わりをつげた原田氏のことは、
4/8「秀吉、まいる」で少し触れた。

 今日午前中、志摩町吉田を托鉢したおりに、かねてより聞いていた、
「落石さま」を訪ねようと、野北(のぎた)まですこし足をのばした。
近くの人に「落石さま」を祀ってある祠(ほこら)を尋ねると、
目の前の小さなお堂がそれだと教えていただいた。
「行商の神さまといわれているよ」
「今は詣る人もいなくなったが、九月の一日にはお祓いがあってるよ」
そんなことを教えてくれた。

 天正十五年四月のある夜半高祖城下をぬけ、北へ急ぐ三人ずれがあった。
それは高祖城最後の城主、原田信種の一人むすめ輝姫と、それに従う乳母と、
付き添いの男である。
この時輝姫十四才、父の信種は、この姫だけには原田家が落ちても、
天寿をまっとうしてやりたかった。
信種は輝姫と乳母を呼び、乳母と共に野北の里にいそぎ、身をひそませるよういいきかせた。
輝姫とて武家の娘、父や弟の嘉種(よしたね)と共に戦い、討死することを望んだが、
ついに父の言にしたがい、乳母の里である野北の里に落ちのびることになった。
輝姫をたくされた乳母は感激して、
「お痛わしい"おちい様"(乳母はこう呼んでいた)かくなるうえは、
この乳母が命に代えましても、おちい様の行く末は、きっとお守りいたします。」

 輝姫一行が落ちていく様子は『戦国糸島史』(中野正巳著)の美しい描写をそのまま紹介してみます。
「あわれ、きのうまでは大ぜいの召使いにかしずかれ、高祖の里を一歩も出たことのない輝姫も、
今夜の供はただ二人、われとわが身にムチうちつつ、乳母がそろえた手甲(てっこう)きゃはんに
身を固めて、なつかしの高祖をあとにした。
路べにそよぐ葦の葉ずれにも心をおののかせつつ、月夜千鳥のなく泊(前原市泊)の干潟をかちで
わたり、馬場村(以下、志摩町)から吉田の里をすぎ、久米から渡し舟にうちのって対岸の野北浦
に着いたころには、すでに初夏の夜は明けはなれて、玄海の波が白々と磯辺を洗っていた。」

折よく居あわせた乳母の夫源助は、妻から事情を聞き感激し、
「お殿様が、このおれを頼ってゆけと・・・」言いもおわらず男泣きに泣き伏した。

せまい野北浦のこと、この悲話はすぐに村中に広がる。
荒くれた浜の漁師や女房もこの悲話を聞き、お痛わしいことじゃと、
あちらの漁家、こちらの農家から「"おちいさま"にあげてくれ」と
野菜や魚が届けられる。
村人の情けに感謝しながら日を送っていた輝姫のもとに、ほどなく高祖城落城の噂も聞こえてくると、
「このまま人の情けにすがって生きているわけにいかない」と、かたく心に決するものがあった。

 幾月がすぎ、輝姫はなにを思ったか、着物の振り袖を思いきり断ち切った。
そして、「私はもうこの世にたった一人の女、何か仕事をしなくてはなりません。
源助にたのんで、魚を売りに出たいと思います。」
おそれおおいことと、源助夫婦がことばを尽くして止めるが、輝姫の決心は固かった。
こうして翌日から輝姫は、一介の魚売りの娘になった。
「見ろ、おちいさまが、魚売り娘にならっしゃたぞ」
「ほんに、おおしいご決心じゃ、うちの娘も見習わせてやらねば」
輝姫の行商範囲は次第に広がって、はては吉田、馬場、泊、さらに志登、潤、高祖にまで、
出稼ぎに行くようになった。
こうしたことがあって以来、野北の娘は一度は魚の行商をしなければ、
一人前になれないとさえ言われるほどになった。

信種はついに、輝姫を迎えにくることはなかったが、輝姫は父の願っていたように、
名もテルと改め、平凡ながら幸せな漁夫の妻となり一生を終えた。
その後、土地の人々は「おちいさま」を行商の神さまとしてあがめるようになり、
ほこらをたてその霊を祀った。
「落石さま」は、この「おちいさま」が転化したものだという。

 二丈町唐原の平家の悲話に対して、もうひとつの悲話というタイトルをつけたが、
こんどの話は輝姫のたくましさが伝わってきて、救われる思いがする。
なお、今日の記述は、『戦国糸島史』によるところが大きい。
あらためて、この本に出会えたことに感謝します。

福岡 初盆のことならまごころ葬儀羅漢

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