托鉢ブログ

何故、托鉢なのか?

托鉢をするようになって三年近くになる。
入社当時は疑問に思っていた。
「葬儀社が一軒一軒訪ねるなんて」
その疑問は今、感謝にかっわている。

「何故、托鉢に出るか解るか」
ある時、師は尋ねた。
当時"執われがやまついて"(執われ満杯)いた私に、托鉢は気が重かった。
「世間をするためたい」
(世間はしてきましたよ)心の中で反発する。
「世間に教えてもらうとたい」

 師に出会った頃、(もう十数年も前になる)
常に"苦しいほうを選べ"と教わった。
軟弱者の私には、軽く受け止められる言葉ではなかった。
岐路に立つとき、いつもこの言葉が私の身を固くした。

私にとって托鉢は、まさに"苦しいほう"だった。
"苦労は買ってまでしたくない"のだが、
苦しみながら、どうにか苦しいほうを選んできた。

「お客様にどういうふうに話せばいいのだろう」
という不安と、生真面目(??)な性格からくる、
「仕事に結びつかなかったらどうしよう」
というプレッシャーで気が重かった。

 そんな時であった。
『衆生が仏』ということを教えていただいたのは。
衆生とは世間ということ。
「空気も風も衆生ぞ」
師はそうつけ加ええた。
生きとし生けるもの、森羅万象ことごとく佛ということになる。

山に籠もったり、座禅をしたり、滝にうたれたりするのが、
"修行"ときめつけていた。
「世間からならうったい」と師は言われる。
世間(相手)は、自分の鏡という。
世間でひどい目に遭えば、"お前も同じことをしてきたのだ"
と教えているのである。
『衆生が佛』とはそのことである。
それを感謝で受け止めるとき、世界は一変する。
なにもなくて、見ず知らずのお宅の門口に立つことができるか。
托鉢させてもらうからこそではないのか。
物事を知らなかった私は、ただ頭をたれるばかりである。


福岡 初盆のことならまごころ葬儀羅漢

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