人を葬送(おくる)ということ。
この仕事の就いてから、10年近くなる。
おそらく終生の仕事になることはまちがいない。
10年といえば、中堅あるいは、ベテランという言葉を当てがちになるが、
いまだに、慣れたという感覚が薄い。
依頼の電話があるときも、お迎えにあがるときも、
納棺するときも、葬儀式に臨むときも、
一種の緊張感が伴う。
ほんの数人での葬儀でも、
生花が何十本も並ぶ葬儀でも、
社会の片隅でひっそりと生きてきた人の葬儀でも、
著名人の葬儀でも、
人知れず息を引き取った人でも、
多くの人に看取られながら、逝った人でも、
葬送(おくられる)ひとは、たったひとりなのである。
おくられし人と、おくる人の関係によって、
その悲しみは違う。
私たち葬儀社の人間は、遺族にはなれない。
同じ悲しみを共有することは出来ない。
同時に、人を葬送(おくる)ことを職業とする人間として、
冷静な立場に立つことが、プロとして当然のことでもある。
人が亡くなることに、どこで立ち会うかで
その受け止め方は違う。
息を引き取る、まさにその時にいる人と、
風の便りに聞く人とでは、
"人の死"の重さが違ってくる、
いや、人の死の重さに違いはない。
受け止め方が違うだけである。
祭壇の前の柩は、いつも同じように横たわっているが、
一人一人異なる終焉をむかえている。
それをご遺族と共に、悲しみは共有できないが、
私たちも見てきた。
(悲しみを共有できる。というのはおこがましい。)
人は病院だけで亡くなるわけではない。
自ら命を絶つ人もあるし、
無惨な事故で亡くなる人もある。
長い間、その亡骸(なきがら)が見つからない人もある。
そのお一人お一人に、私たちは立ち会う。
警察署に赴くこともあるし、その現場に行くこともある。
悲しみは共有出来ないが、
冷静に適切に対処することで、
ご遺族の方々の気持ちに寄り添えることができればと思う。
どのような亡くなりかたをしても、
人を葬送(おくる)ことに何の違いはない。
死に逝く人は、その命を懸けて私たちに伝えているのだと思う。
私たちは、その思いに気がつかなければならない。
葬送とは、供養であり、祈りである。
浄土に導いてくださるのは導師様だが、
送りゆく私たちも祈ることはできる。
一心に葬送(おくる)仕事を遂行することで、
故人様の思いに応えることができればと思っている。
福岡 まごころ葬儀羅漢
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